三国志1 三国志I 三國志1 三国志I

 ハンドブック紹介

 

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   三國志ハンドブック 仮想戦記  
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基本データ

●概要

 「諸葛亮が五丈原で死ななかったら」という仮定で、3つのシチュエーションを紹介する。同一の趣旨の『ジンギスカンハンドブック』の「神風は吹かず!」や、『提督の決断ハンドブック』の「連合艦隊ついに勝つ」などと比べると、どの展開も史実以上にシビアであり、ご都合主義的な進行に持っていこうとしない点については評価することができる。



●本項の構成

ページ タイトル
168〜169 ・(前記
170〜172 孔明 蜀の黒幕となり 政を牛耳る
172〜173 孔明 クーデタを起こし 建国す
173〜175 蜀の諸将 クーデタを起こし 孔明失脚す
175 ・(後記



●備考

 表のリンク先では、各項の注目点をまとめている。また、リンク先のタイトル部分のリンクは、上の表に戻るためのリンクである。なお、「タイトル」の( )は、本書内では区分されていないものを、本稿において便宜的に区分したことを示す。
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前記

●古今の名宰相とその見識をうたわれた諸葛亮孔明は、五丈原に没した。享年四十三歳、二三四(建興十二)年、秋のことである(168ページ)

 諸葛亮の生年は181年、没年は上記のとおり234年であるため、実際の年齢は満年齢で53歳である。つまり、見出しの文章は10年の誤りがある。ちなみに、「建興」は蜀独自の元号であり、魏や呉では異なる元号を用いていた。
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孔明 蜀の黒幕となり 政を牛耳る

●概要

 表向きは諸葛亮が死んだことにして魏と呉を争わせ、その間に国政を充実させようとする想定である。しかし、魏呉両国は蜀の動向に不審を抱き、蜀への侵攻をはじめる。

 諸葛亮は、この侵攻を撃退するものの、諸葛亮の死後も呉との同盟が継続されていた史実と比較すると、呉が敵に回っている分だけ状況は悪化していると言える。ちなみに、『三國志英傑伝』では、曹操が、この手法で呉と蜀の戦いを誘引しているが、やはり両国間は同盟を結び、魏に侵攻することとなる。



●それよりも、魏や呉にとって大事なのは、蜀の勢力が恐るるに足りぬものとなった今、当面の敵――目の前のタンコブは、魏にとっては呉であり、呉にとってはもちろん魏であった(170ページ)

 史実的には、蜀の衰退が明らかなものとなった際、魏は蜀を滅ぼすべく兵を起こし、蜀を滅亡させている。魏からすれば、弱まった蜀を前にして、あえて戦力を温存している(それも積極的に攻めてくることはない)呉を先にたたく理由は見つからないと思われる。



●また、五丈原後、激しさを増した二国間の対立のはざまを巧みに抜って、呉と結んだかと思うと、一転して魏と同盟したりと、虚々実々の駆け引きを繰り返す(171ページ)

 「漢王朝から帝位を簒奪した魏を討つ」というのが蜀のイデオロギーである。「魏と同盟」してしまえば、そのイデオロギーは崩れ、戦争の大義名分と、蜀の存在意義は消滅するといっても過言ではない。
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孔明、クーデタを起こし、建国す

●概要

 この想定の諸葛亮は劉禅を見限り、姜維らと結託して簒奪を目論むものである。この際、諸葛亮は魏の諸葛誕、呉の諸葛瑾らを蜀に迎え入れようと試みるが、史実を考慮すると、彼らが祖国を裏切るとは思えない。なお、173ページ上段の3行目には、「魏の(諸葛)誕」とあるべきところが「魏の均」になっているというミスがある。

 ちなみに、『三國志孔明伝』のCS版では、実際に諸葛亮がクーデタを起こすことができるが、魏と呉の双方を敵に回すこととなり、一方を打ち破っても片方に蜀を滅ぼされてしまう。つまり、その時点でバットエンドが確定してしまうわけである。



●孔明の建てた国が蜀を基盤としている以上、この新国家がそう長く存続するとは思えない。けれども、五胡十六国時代以後の中国史が全く違う様相を呈するであろうことは必至である(173ページ)

 諸葛亮の没年は234年。享年は満年齢で53歳である。しかし、もともとの死因が「過労死」という、偶発的要素の少ないものである以上、あまり長生きは望めないように思われる。

 その後継ぎが嫡男の諸葛瞻になることは間違いないが、彼は227年生まれであり、史実で諸葛亮が死去した時には7歳に過ぎない。諸葛亮の死ぬ時期にもよるが、結局は蒋や費の補佐を受けることになり、その間の歴史の流れは、史実とあまり変わらないはずである。

 北伐の継続についても、それを行うのが諸葛瞻本人か姜維あたりかという違いくらいであり、やはり連敗を重ねて国力の衰退したところを魏に攻め滅ぼされるという、史実とあまり変わらない展開になるのではないかと思われる。

 しかし、史実の諸葛瞻の最期(綿竹関で玉砕)を考慮すると、彼は成都の住民を王朝滅亡の道連れにする可能性がある。だとすれば、無駄な血が流れずに済んだだけ、劉禅の方がましであるともいえる。



●はたして、諸葛瑾や諸葛誕は、君主との「義」を重んじたか。それとも、一族の血のつながりを優先させ、孔明に従ったか。――この仮想の成立は、すべてこの一点にかかっている(173ページ)

 諸葛瑾については、本文内にも解説がある通り、諸葛亮との内通を疑われることもあったが、孫権からの信頼も厚く、本書69ページの「三國志故事来歴@」にもあるように、務めて諸葛亮から距離を置こうとした。こうした人物が蜀に寝返る可能性はあり得ないと言える。

 また、諸葛誕が反乱を起こしたのは258年、本文中には彼が征東大将軍であると描写されているが、これも250年代後半になってからのことで、生きていれば、諸葛亮はすでに70を過ぎている。こちらの方は、諸葛亮の寿命が持たないと言うことになる。
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蜀の諸将 クーデタを起こし 孔明失脚す

概要

 成果の上がらない戦いに嫌気がさした蜀の諸将が諸葛亮の一族を蜀から追放する。この想定は、想定の是非以前に、「公然の秘密」ともいえる事実をあからさまにしている点において価値がある。



●しかも費は軍人であったから、積極策をとって軍事行動に奔走し、ふたたび国力の疲弊を招いた(174ページ)

 史実の費は、姜維の積極的侵攻策を退け、国力の充実を優先させた人物であり、この配役には無理がある。「費」は「姜維」の誤記なのではないかと思われる。



●やがて費や郭攸之、董允と蜀を支える彼らの中から宦官と手を組むものが出現してくる(175ページ)

 「宦官」とは、言うまでもなく黄皓のことである。史実の董允は、246年に死去するまで黄皓の政治介入を防いでいた人物であり、ここに名が挙げられることは、本来ならばありえない。

 また、黄皓の専横が始まったのは彼らの死後であり、彼らが生きていれば、たいした権力を持たない黄皓と手を組む必然性は生じない。そのため、ここでは時系列にゆがみが生じている。

 しかし、諸葛亮を追放しただけで、ここまで人間関係がおかしくなるのだとすれば、五丈原で諸葛亮が死んでいた方が、蜀の安定のためには良かったと言っても過言ではない。
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後記

●実は、蜀を滅ぼしたのも、呉を滅ぼしたのも、しかしながら、魏ではなかった。「魏」とあるべき場所に、わたしたちは「晋」をいだす(175ページ)

 蜀の滅亡は263年、禅譲によって魏が消滅したのが265年であるから、少なくとも蜀を滅ぼしたのは魏である。ただし、蜀侵攻の直前に司馬昭が晋公に封じられており、魏王朝の家臣の国としての「晋」が存在していたことは事実である。
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