概要

「『弘安の役』で台風が来なかったらどうなっていたか」をテーマとした仮想戦記である。しかし、史実(*1)に対して無理のある仮定が多すぎるように感じられる。

最大の問題点は、元軍の台風に対する被害を過大視しすぎていることである。実際のところ、「弘安の役」は台風が吹こうが吹かなかろうが、日本軍は善戦していたことは間違いのない事実であり、台風がなかったことで日本が窮地に陥るという前提からして無理がある。

また、戦後、安達泰盛がクーデタを起こし(*2)、日本は南北朝ならぬ東西朝に分裂するという想定も、時宗の外戚としての泰盛の立場を考慮するならば、自分の権力基盤を破壊する行為に他ならず、やはり話の流れがおかしなことになっているように感じられる。

それでいて、以降の歴史は朝廷の再統一、戦国、幕藩体制という史実に近い姿が提示される。どうしても都合の良さだけが表面に浮き出ている印象があり、評価するべき点があるとすれば、逆説的に歴史の必然性を考えさせられるということだけである。
 
 
文永の役

史実の元軍は、1274年11月に対馬と壱岐を襲撃、続いて博多に上陸し、日本軍と交戦したが、間もなく撤退している。およそ15日ほどの戦闘であったが、これが「文永の役」であり、言わば「第一次元寇」にあたる。

本書191ページによると、本項は「仮想弘安の大戦」であり、「弘安の役」、つまりは「第二次元寇」をモデルにしていることが分かるが、「文永の役」については一切解説がない。だとすれば、「仮想弘安の大戦」は「文永の役」が起こらなかった場合の想定ということになる。

そうすれば、初戦の日本軍の無様な戦いぶりも説明がつくが、元軍の戦力は「文永の役」の敗戦を踏まえたうえでの「弘安の役」の兵数である。そのうえ、日本には「文永の役」以後に構築された石築地が存在する。

これらは「文永の役」がなければ存在しえないものであるが、そのあたりに関する解説は一切ない。それは「ご都合主義」といわれても仕方のない手抜きのように見える。



一二八一年閏七月一日(188ページ)

本項の想定は、この日に台風が起こらなかったことからはじまり、その後に元軍が博多に上陸している。しかし、一方では、「六月上旬から幾度となく日本を脅かした東路軍4万」という記述もあり、それまでの間も、日本軍と元軍の交戦があったことをうかがわせている。

史実においても、元軍は6月の時点で博多湾への上陸を試みているが、日本軍に撃退されて上陸を断念している。さらに、史実の日本軍は台風なしで壹岐島や鷹島を占領した東路軍に攻勢を仕掛けており、東路軍との戦いに限れば、むしろ優勢であったとも言える。



明けて二日。大船団は、博多湾にその威容をを現す(188ページ)

台風を受けなかった江南軍は無傷のまま博多湾に集結し、その後、「雲霞のごとき元軍は博多湾を埋めつ」くすことになる。しかし、ここで問題となるのは、博多湾の地勢が、それを許すかということである。

博多湾周辺の地勢は「C」を左右に反転した形に例えることができる。入口の両側を志賀島と西浦岬に狭められ、大艦隊が通るには非常に都合の悪い地勢である。さらに、北西の玄海島、南東の能古島が大艦隊の移動を阻害している。史実における東路軍の苦戦の一因も、この地勢にあるとみて間違いはない。

これらに加えて、博多湾には石塁が築かれているわけである。簡単に大軍を上陸させるのは明らかに不可能であり、非常に時間がかかるものと見なした方が自然である。それを日本軍が許したというのであれば、この想定における日本軍はどれだけ無能なのかということになる。


 
日本側の被害はより甚大で、死傷者16万人の他、混乱に乗じた脱走農民も含め、20万以上の行方不明者を出し、西日本の荘園経済は壊滅する(191ページ)

「仮想弘安の大戦」終了後の日本の状況について。このようなことを記しているにもかかわらず、14世紀初頭に室町幕府が成立するまでの間に「武士団との地縁的な結合が強まり、民衆の経済力は増強する」という。35万以上の人口を喪失し、西日本の農業体制が壊滅した中、数十年ほどで復旧を果たし、それ以上の経済力を持つことができるのかという疑問がある。



その年の10月、洛中警備の責を追っていた有力御家人の安達泰盛がクーデターにより京都を制圧し、時宗一族を惨殺する(192ページ)

元寇における論功行賞の不満に対し、北条時宗は史実以上の強権によって反発を抑えつけようとする。その結果として、安達泰盛がクーデタを起こすという想定である。

しかし、そもそも泰盛がクーデタを起こすという想定自体があり得ない。確かに彼は謀反の嫌疑をかけられ、「霜月騒動」で殺されているが、それ自体が政敵の平頼綱の讒言によるものである。

さらに泰盛は時宗の外戚、つまり、時宗の息子で次代執権の貞時の祖父にあたる人物であり、「時宗一族を惨殺する」ことは自分の娘や孫を殺すということである。そのような人物が、わざわざ自分の権力基盤を破壊するというのも、明らかに無理のある想定である。



泰盛の祖父景盛が源頼朝の後胤であったと主張し、親朝廷(西朝)より征夷大将軍に任じられる(192ページ)

史実では泰盛と敵対した平頼綱の讒言の主幹である。いくらなんでも、史実の敵対者の主張をクーデタ以後の政権掌握の根拠とするのは、皮肉が効きすぎていると思われる。


 
史実より約1世紀早く室町期を迎えた日本(192ページ)

史実の「弘安の役」は1281年に起きており、室町幕府は1336年に成立している。つまり、その間は55年、もとより約半世紀の時間差しかない。「1世紀早く室町期を迎え」れば、「弘安の役」以前に室町幕府が誕生することになる。

また、この55年の時間差が縮まったと考えることもできるが、その場合は前述の通り、35万人以上の人口と西側の荘園を喪失した状態からの立ち直りが余計不自然となる。本項では、史実以上に日本の統一と発展が早くなるという想定をしているが、明らかに都合の良すぎる展開である。
 
 
*1

史実の元寇に対しては、『歴史群像シリーズ26 チンギス・ハーン 下』の122~127ページ、144~146ページ、177~191ページ、『日本史小百科18 戦乱』の250~255ページ、『日本の合戦 二 南北朝の騒乱』の101~162ページなどを参照している。


 
*2

史実の「霜月騒動」が原型になっていると思われる。これについては『日本史小百科18 戦乱』の82~83ページ、Wikipediaなどを参照している。