戦国夢幻

 

   戦国夢幻 武将 あ  


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●能力値
名前 秋月種長 能力 戦闘 内政 外交 謀略 忠臣
読み あきづき・たねなが 能力値
生没年 1567〜1614 軍師
登場年 1583年 上昇 汎用
血族 秋月 備考  
●シナリオ 
シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵種
S1 42年後 与力 0.0万石
S2 23年後 与力 0.0万石
S3 12年後 与力 0.0万石
S4 1年後 与力 0.0万石
S5 高橋家 与力 県城 0.6万石 足軽
S6 立花家 与力 立花城 1.3万石 足軽
●略歴 
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 1567〜1614。種実の長男。高橋元種の兄。父とともに九州に侵攻した秀吉と戦ったが降伏した。その結果、秋月家の領土は日向高鍋3万石に転封され、種長は隠居した父の後を継いだ。

 「文禄の役」における種長は4番隊として高橋元種、伊東祐兵らとともに1594年4月に釜山に到着、6月には江原道で朝鮮軍の元豪を撃破、続いて要害に籠った原州の金悌甲を崖をよじ登って滅ぼした。その後、毛利吉成は原州から平昌の郡守である権斗文に降伏を呼びかけたが、斗文は使者を斬り、山中に潜伏した。そのため、種長は吉成の命で斗文を捕えた。

 「慶長の役」では、黒田長政率いる3番隊に属して安骨浦城に渡っている。8月、種長は全羅道攻略軍の左翼に配属され、南原城の包囲戦では城の東部を包囲した。南原城攻略後は右翼と合流して北進、9月初頭まで北進を続けた後、各占領地の要塞化のために撤収した。種長の赴任地は不明であるが、「蔚山城の戦い」において、明軍に包囲された蔚山城の救援部隊に名を連ねている。

 「豊家の変」では西軍に属して伏見城攻略に従軍した。その後は瀬田で守りを固めていたが、石田三成の求めに応じて大垣城に入り、福原長尭の指揮下で大垣城の守備にあたった。しかし、西軍本隊が壊滅すると、高橋元種、相良頼房らとともに東軍の水野勝成と内通、垣見一直らを殺して東軍の大垣城攻めに同調した。これによって種長は家康より所領を安堵され、高鍋藩の藩祖となった。
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●ゲーム 
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 主な登場シナリオは4〜6。シナリオ4では秋月種実の息子として翌年に元服する。シナリオ5では領土の関係で弟の高橋元種に仕えるかたちになっているが、元種は高橋家の養子になっているためか、一門衆の設定はない。能力的には「外交」が優れており、身分もそこそこであるため、ゲーム開始直後の浪人の登用に活用したい。
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●能力値
名前 秋月文種 能力 戦闘 内政 外交 謀略 忠臣
読み あきづき・ふみたね 能力値
生没年 1510〜1557 軍師
登場年 1526年 上昇 汎用
血族 秋月? 備考  
●シナリオ 
シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵種
S1 大内家 与力 立花城 1.4万石 足軽
S2
S3
S4
S5
S6 立花家 組頭 立花城 0.6万石 足軽
●略歴 
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 ?〜1557。筑前国秋月城城主。種実の父。大内家に服属し、1541年には大内義隆の推挙で幕府番衆に任じられている。義隆が陶晴賢に殺され、大内家の筑前支配が揺らぐと、文種は大友家に従属した。

 毛利元就が晴賢を倒して大内領を併合すると、文種は彼に内通して大友家に反旗を翻そうとしたが、1557年7月、計画が露見したことにより、文種は2万からなる大友家の討伐軍と戦うことになった。文種は秋月城から古処山城に移り、1500の兵で抵抗したが、敗れて自害した。なお、死因については内応した家臣に殺されたとも言われる。

 これによって秋月家は滅亡したが、戦死した長男の晴種を除く文種の息子たちは逃げ延び、後に秋月家を再興した。ちなみに、種実らとともに文種も逃げ延び、毛利家の庇護を受けたとする説もある。
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●ゲーム 
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 登場シナリオは1と6。能力的には最低限の内政要員といったところである。「外交」が低いのは毛利家の調略に乗り、家を滅ぼしたことに由来すると思われるが、どちらかと言えば「謀略」のマイナス要因なのではないかと思われる。
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●能力値
名前 秋利康次 能力 戦闘 内政 謀略 外交 忠臣
読み あきり・やすつぐ 能力値
生没年 1573〜1637 軍師
登場年 1589年 上昇 汎用
血族 備考  
●シナリオ 
シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵種
S1
S2 29年後 馬廻 0.0万石
S3 18年後 馬廻 0.0万石
S4 7年後 地侍 0.0万石
S5 長宗我部家 地侍 中村城 0.1万石 足軽
S6
●略歴 
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 生没年不詳。詳細不明。
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●ゲーム 
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 主な登場シナリオは5。能力的は低く、家臣に加える必要性は低いが、「外交」だけは人並みであるため、「登用」程度ならばこなせる。長宗我部家の場合、領土拡大後は、「強兵」属性を持つ浦戸城あたりで「開墾」をしつつ、浪人が流れてきたら「登用」を行うという役割が妥当なところであると思われる。
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●能力値
名前 秋山信友 能力 戦闘 内政 謀略 外交 忠臣
読み あきやま・のぶとも 能力値
生没年 1531〜1575 軍師
登場年 1547年 上昇 固有
血族 備考 武田二十四将
●シナリオ 
シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵種
S1 6年後 組頭 躑躅ヶ崎館 0.0万石 騎馬
S2 武田家 重臣 躑躅ヶ崎館 0.2万石 騎馬
S3 武田家 奉行 躑躅ヶ崎館 1.0万石 騎馬
S4
S5
S6 武田家 部将 新府城 0.1万石 騎馬
●略歴 
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 1531〜1575。武田家家臣。10歳で元服した際、信玄(晴信)の一字を受けて「晴近」を称し、翌年の諏訪家との戦いで初陣を飾った。その後も信濃攻略で戦功を重ね、信濃伊奈郡の郡代として伊奈郡の各城の城代を歴任した。1567年には、武田家と織田家の婚姻同盟を推進、返礼の使者として岐阜城で歓待を受けている。

 1572年、武田家は「信長包囲網」の一翼として西上作戦を開始した。信友も、その一員として従軍し、「三方ヶ原の戦い」では徳川軍を撃破、家康に「猛牛」と言わしめた。その後、信友は本隊から分かれて東美濃の岩村城に移り、前城主遠山景任の未亡人を娶ることで岩村城を接収した。また、この際に景任の養子となっていた信長の息子勝長を捕え、甲斐に送っている。

 以後、信友は岩村城で東美濃方面の守りを固めるかたちとなり、1575年の「長篠の戦い」にも参戦していない。この戦いの後、孤立した岩村城は織田信忠の攻撃を受け、信友は和議を結んで城を明け渡したが、信長の命によって捕えられ、磔刑に処された。ちなみに、信友によって甲斐に送られた勝長は1581年に武田家から織田家に送り帰され、その翌年の「本能寺の変」で信忠に殉じている。
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●ゲーム 
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 シナリオ3では死期が近い。能力的には「戦闘」と「内政」に秀でているが、軍団を編成している間は「内政」の高さを生かすことができないため、敵地への攻撃要員とするよりは、敵が攻めて来た時のための迎撃要員に割り当て、普段は、「内政」を行わせた方が良い。人材が豊富な武田家ならば、このような役割分担をする余裕も生じるはずである。
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●能力値
名前 明智秀満 能力 戦闘 内政 外交 謀略 忠臣
読み あけち・ひでみつ 能力値
生没年 1537〜1596 軍師
登場年 1553年 上昇 汎用
血族 明智 備考 明智五宿老
●シナリオ 
シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵種
S1 12年後 地侍 0.0万石
S2 斎藤家 組頭 岩村城 0.6万石 足軽
S3 織田家 組頭 二条城 0.6万石 足軽
S4 明智家 宿老 安土城 10万石 鉄砲
S5
S6 明智家 宿老 丹波亀山城 6.5万石 足軽
●略歴 
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 ?〜1582。出自ついては諸説あるが、本作では明智光安の息子とする説を採用したようである。光秀光安の甥とする説に従えば、光秀と秀満は従兄弟ということになる。

 秀満は光秀の娘を娶り、彼の娘婿となった。その時期は不明であるが、この娘は、もともと荒木村重の長男に嫁いでおり、村重の謀反によって離縁されたため、秀満との婚姻は、村重が謀反を起こした1578年以降ということになる。1581年、光秀が信長から丹波を任せられると、秀満は光秀によって福知山城代に任じられた。

 秀満は「本能寺の変」で光秀に加担し、その後は安土城を占拠したが、「山崎の戦い」で明智軍の本隊が壊滅すると、安土城から退去した。この際、秀満は安土城に火を放ち、全焼させたとする説があるが、信憑性は低いようである。

 撤収中に秀満の部隊は、秀吉軍の堀秀政に捕捉された。戦いに敗れた秀満は坂本城に退いたが、その際に騎乗したまま琵琶湖を渡ったとする逸話がある。しかし、これもまた伝説の域を出るものではない。彼を追撃するかたちで秀政が坂本城を包囲すると、秀満は坂本城にいた光秀の妻子を殺し、城内の宝物を包囲軍に引き渡すと、城に火を放ち、自らも命を絶った。
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●ゲーム 
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 織田家や斎藤家の家臣としては目立つ存在ではないが、光秀が「主君」となるシナリオ4や6では、「宿老」として明智家の中枢を担う。また、「本能寺の変」イベントが起こると、彼と斎藤利三は、必ず明智家の家臣となるようである。
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●能力値
名前 明智光秀 能力 戦闘 内政 外交 謀略 忠臣
読み あけち・みつひで 能力値 ×
生没年 1528〜1582 軍師
登場年 1544年 上昇 固有
血族 明智 備考 織田四天王
●シナリオ 
シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵種
S1 3年後 組頭 岩村城 0.0万石 足軽
S2 斎藤家 部将 岩村城 1.0万石 足軽
S3 織田家 重臣 二条城 2.0万石 鉄砲
S4 明智家 主君 二条城 15万石 鉄砲
S5
S6 明智家 主君 丹波亀山城 9.2万石 鉄砲
●俗説による前半生
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 1528〜1582。現在においても光秀の前半生は確定していないが、少なくとも本作では、土岐氏の支流の明智家出身とする説に従っているようである。この説の場合、光秀は土岐本家を美濃から追放した斎藤道三に仕え、道三と息子の義龍が対立した際には道三に味方したため、道三を倒した義龍によって国を追われている。

 その後、光秀は越前に逃れて朝倉義景に仕えた。この間に都では将軍の足利義輝が三好三人衆らに殺され、その弟の義昭義景の庇護を求めた。光秀は義昭の知己を得ると、人脈を活かして義昭を信長に引き合わせ、以降は幕臣となりながら、信長と行動をともにしたという。
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●織田家家臣時代
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 1568年9月、光秀は信長、義昭らの上洛に従った。10月、光秀は信長から義昭の警護を任せられたが、信長が美濃に帰還した隙をついた三好軍は、義昭の仮御所であった本圀寺を襲撃した。光秀らは織田家の援軍が来るまで持ちこたえ、援軍の助力を得て三好軍を撃退した。これ以降、光秀は京都一帯の政務を担当し、羽柴秀吉、丹羽長秀らとの連署に名前が見られるようになる。

 1570年4月より光秀は信長の越前遠征に従ったが、この遠征は浅井家が織田家を裏切り、退路を断つかたちになったことで失敗した。撤退にあたり、秀吉が殿軍を務めあげたことは勇名であるが、光秀も殿軍となった武将の1人であったらしい。撤収後、光秀は近江を中心に浅井、朝倉軍との戦いを続け、年末には「坂本の戦い」で戦死した森可成の代わりに宇佐山城主となった。

 1571年9月、光秀は、浅井、朝倉軍に味方した延暦寺の焼き討ちを行った。この功績により、光秀は信長から近江国志賀郡の統治を任され、拠点として坂本城の築城をはじめた。1573年から信長と義昭の対立が決定的になると、光秀は信長を選び、義昭側の諸城を攻略した。義昭追放後、光秀は朝倉、浅井、本願寺との戦いに従軍している。
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●丹波方面軍団長時代
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 1575年6月、光秀は信長の命で丹波攻略を指揮した。まず光秀は、赤井直正の籠る黒井城を包囲するが、8月からは信長の指揮下に入り、越前の一向一揆鎮圧に従事した。光秀は秀吉とともに海路で一揆軍の後方に回り、本隊に追われて壊走する一揆軍を殲滅したという。

 1576年1月、丹波の光秀軍は、波多野秀治の裏切りもあって撃退されたが、光秀は信長の指揮下に入ったまま5月には本願寺の包囲に加わり、1577年2月から信長指揮下のまま紀伊の雑賀衆と交戦、10月からは織田信忠に従い、反旗を翻した大和の松永久秀の討伐にあたった。

 久秀の死後、その月のうちに光秀は再び丹波攻略の指揮官となり、籾井城と丹波亀山城を攻略、1578年3月には、丹後方面を指揮する細川幽斎の助力を得て波多野家の八上城を包囲したが、5月には再び信忠の指揮下に入り、中国地方を担当する秀吉の救援に向かった。7月、摂津の荒木村重が反乱を起こすと、光秀は秀吉、松井友閑らとともに説得にあたったが、これは失敗している。

 1579年6月、光秀は八上城を攻略、波多野秀治、秀尚兄弟を信長のもとに送ったが、彼らは信長によって殺された。続いて8月より黒井城の攻略に着手、その月のうちに黒井城を落とし、丹波の有力勢力を一掃した。その後は10月19日まで村重の反乱鎮圧に従軍、24日に安土城に凱旋した。1580年、光秀は信長から丹波1国を与えられて一国の領主となり、近畿一帯の軍事指揮権を与えられた。
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●本能寺の変
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 丹波領主となった光秀は、娘婿の秀満に福知山城、親族の斎藤利三に黒井城を任せた。また、本人も由良川の治水、税の免除などの善政を行い、領民の支持を得た。1581年2月28日、光秀は信長から「京都御馬揃え」の運営を一任された。ここでは光秀自らも3番手に名を連ね、大和衆と上山城衆を引き連れて京都を行進している。

 1582年2月からの武田家との戦いにおいて、光秀は信長本体に直属した。そのため、実際に戦いをすることはなかったと思われる。5月、家康が信長から駿河一国を与えられた返礼に訪れると、光秀は饗応役となった。しかし、毛利家と交戦中の秀吉から救援要請が来ると、光秀は信長から饗応役の任を解かれ、秀吉の救援を命じられた。

 5月26日、光秀は戦闘準備を整えて丹波を出立、6月1日に京都に入り、秀満、利三らに心中を明かした。翌日、光秀は本能寺において信長を襲撃、さらに二条城に攻め寄せて信忠らを殺すと、安土城を占拠して近江を支配下に収めた。

 続いて光秀は、丹後の細川幽斎、大和の筒井順慶に協力を要請したが、幽斎は信長の喪を弔うことで明確な拒否の意を示し、順慶は日和見を決め込んだ。こうした不安定の状況のまま、光秀は急遽中国地方から撤収してきた秀吉軍と戦うことになった。6月13日、光秀は「山崎の戦い」で秀吉軍に敗れ、逃走中の落ち武者狩りによって殺された。
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●ゲーム 
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 能力は「謀略」以外はいずれも高く、さらに成長しやすい。そのうえ、「忠臣属性」も低いため、引き抜きには最適の人材である。シナリオ1でも3年後に岩村城で浪人として登場するため、スカウト要因を向かわせるだけの価値はある。

、シナリオ2では、すでに美濃を追われて流浪の旅に出ているはずであるが、一族とともに岩村城にいる。このシナリオの光秀は危険性が低いという意味で引き抜きやすく、多少無理をしてでも引き抜く価値がある。

 シナリオ3でも引き抜きやすいことに変わりはないが、織田家の本隊に属しやすいために工作員が捕まりやすく、引き抜きは難しい。また、シナリオ3では彼がキーパーソンとなる「本能寺の変」イベントが起こりやすい点にも注意する必要がある。

 シナリオ4と6では「主君」として明智家を率いている。シナリオ4では、開始年が没年である点に注意したい。なお、明智家が滅びた場合、彼は明智家を滅ぼした勢力の家臣となるか、浪人として在野に下る可能性が高い。家臣にできれば大きな戦力となるため、明智家が滅んだ場合、彼の動向には注目した方が良い。
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●能力値
名前 明智光安 能力 戦闘 内政 外交 謀略 忠臣
読み あけち・みつやす 能力値
生没年 1497〜1566 軍師
登場年 1513年 上昇 汎用
血族 明智 備考  
●シナリオ 
シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵種
S1 斎藤家 部将 岩村城 1.0万石 足軽
S2 斎藤家 与力 岩村城 1.4万石 足軽
S3
S4
S5
S6 明智家 家老 丹波亀山城 3.3万石 足軽
●略歴 
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 ?〜1556。美濃国明智城城主。美濃の守護大名である土岐家の支流にあたる。また、一説によれば秀満の父であり、光秀の伯叔父にあたる。斎藤道三が土岐頼芸を追放した後は道三に従い、1556年に道三と息子の義龍が対立すると、光安は道三に味方した。しかし、道三は「長良川の戦い」で戦死、明智城も義龍軍に囲まれ、光安は籠城の末に自害した。
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●ゲーム 
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 ゲームではシナリオ1、2、6に登場するが、能力的に見るべきところはない。シナリオ6を基準にすると、光秀秀満らと一門衆の関係にあるが、シナリオ1の光秀は光安のもとで元服するのではなく、浪人として登場する。彼のもとで秀満が元服するかどうかは未検証(シナリオ1では12年後に元服する)なので、現状では何とも言えない。

 光安はシナリオ2にも登場するが、前述の通り、彼はシナリオ2の4年前に死んでいる。これは、彼と遠山景行を同一人物であるとする説に基づいている可能性がある。
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●能力値
名前 浅井井頼 能力 戦闘 内政 謀略 外交 忠臣
読み あざい・いより 能力値
生没年 1570〜1634 軍師
登場年 1586年 上昇 汎用
血族 浅井 備考  
●シナリオ 
シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵種
S1 45年後 宿老 0.0万石
S2 26年後 宿老 0.0万石
S3 15年後 宿老 0.0万石
S4 4年後 宿老 小谷城 0.0万石 足軽
S5 生駒家 組頭 高松城 0.1万石 足軽
S6 浅井家 宿老 小谷城 4.2万石 足軽
●略歴 
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 ?〜1615。浅井長政の息子であるが、養子とする説もある。1573年の浅井家滅亡を生き延び、「賤ヶ岳の戦い」では秀吉に従った。その後、豊臣秀次、秀保らに仕え、秀保の死後は増田長盛の家臣となった。

 「豊家の変」における井頼は、西軍に属して生駒親正の指揮下に入っており、おそらくは田辺城の細川幽斎を攻撃したものと思われる。戦後は親正の息子で東軍に属した一正に仕えた。

 井頼は「大坂の陣」で豊臣側に参じ、「大坂夏の陣」で戦死した。ただし、生き延びて若狭で生涯を終えたとする説もある。また、「真田十勇士」の根津甚八のモデルとする説もあるが、少なくとも本作では採用されておらず、井頼と甚八は別人として登場する。
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●ゲーム 
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 主な登場シナリオは5と6。シナリオ4でも4年後に登場する。「戦闘」が高く、シナリオ6では身分も「宿老」であることから優秀な戦闘要員となるが、シナリオ5では身分が低く、即戦力とはならない。

 「攻略本」では、井頼の「所属大名と身分」の「シナリオ3」の項が「浪人・地侍」となっている。しかし、シナリオ3の彼は、シナリオ1やシナリオ2と状況がまったく変わらないため、これは「浅井家・宿老」の誤りであると思われる。
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●能力値
名前 浅井輝政 能力 戦闘 内政 外交 謀略 忠臣
読み あざい・てるまさ 能力値
生没年 1568〜1632 軍師
登場年 1584年 上昇 汎用
血族 浅井 備考  
●シナリオ 
シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵種
S1 43年後 宿老 0.0万石
S2 24年後 宿老 0.0万石
S3 13年後 宿老 0.0万石
S4
S5
S6 浅井家 宿老 小谷城 4.2万石 足軽
●略歴 
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 1564〜1573。浅井長政の嫡男。幼名は万福丸。「輝政」の名は明治時代に刊行された『浅井氏家譜大成』の中に見えるらしい。輝政は1573年の小谷城落城の直前に、越前の厚賀へと落ち延びさせられた。戦後、信長は市から輝政の居場所を聞きだし、市に手紙を書かせて輝政を呼び寄せた。輝政は秀吉に預けられたが、信長の命を受けた秀吉によって串刺し刑に処された。
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●ゲーム 
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 シナリオ1からシナリオ3にも登場するようであるが、これらのシナリオでは彼を出すこと自体が一つの目標となるくらいに登場が遅い。能力は平凡であるが、身分が高く、初期知行も多いため、大筒隊を率いるのに適した人材である。
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●能力値
名前 浅井長政 能力 戦闘 内政 外交 謀略 忠臣
読み あざい・ながまさ 能力値
生没年 1545〜1609 軍師
登場年 1561年 上昇 固有
血族 浅井 備考  
●シナリオ 
シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵種
S1 20年後 宿老 0.0万石
S2 1年後 宿老 0.0万石
S3 浅井家 主君 小谷城 9.0万石 足軽
S4
S5
S6 浅井家 主君 小谷城 7.0万石 足軽
●前半生
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 1545〜1573。浅井久政の息子。『浅井三代記』によれば、幼いころから家中の勇士に敬意を払い、老臣には戦語りをせがんだという。また、久政に対して反抗的な者がいると、そのもとに赴いてなだめるなどの聡明さから、若くして家中の信頼を集めたと言われる。

 当時、浅井家は六角家の下風に立たされており、長政は、その情勢を苦々しく思っていた。しかし、当主である久政も六角家を敵視する長政を疎んじたため、長政は11歳まで寺に預けられた。その後、久政に呼び戻された長政は14歳で元服、六角義賢より一字を拝領して「賢政」と名乗り、六角家の重臣である平井定武の娘を娶ることになった。

 1559年春、長政は久政の命により、定武のもとに赴いて親子の盃を受けることとなった。これを不服とした長政は、定武の娘を親元に送り返したが、当然のことながら、久政との関係は悪化した。その年の冬には久政が隠居し、長政が家督を継ぐことになったが、このあたりの動向には不明な点が多い。また、長政が「長政」を名乗ったのもこのころであるという。

 1560年8月、長政は「野良田の戦い」で兵力で倍する六角家を破り、六角家から自立した。その後は順当に勢力を拡大しつつ、支城在番制による国人層の管理、撰銭令の発布、商工業者の城下移住などを実施していたようである。これにより、浅井家は国人の盟主から戦国大名への転換に成功した。
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●織田家との同盟と決裂
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 1567年前後に、長政は織田信長からの申し出を受け、彼の妹である市を娶った。浅井家は朝倉家に恩があり、朝倉家と織田家の仲が悪かったことから、反対意見もあり、長政は「独断で朝倉家を攻めない」という約束を婚姻の条件としたという。長政と市の子どもとして確実と言えるのは茶々、初、江の3姉妹であり、息子たちについては、市の息子ではないとする説もある。

 1568年、信長が足利義昭を奉じて上洛すると、長政も彼に従い、「観音寺城の戦い」では、宿敵とも言える六角義賢を観音寺城から追った。また、「本圀寺の変」でも、三好三人衆の攻撃によって窮地に陥った義昭の救援に向かっている。しかし、1570年4月に信長が先の約束を破り、独断で朝倉家に攻撃を仕掛けると、長政は義賢らと手を組み、越前に侵攻中の信長の背後を突いた。

 信長が京都に逃げ延びると、長政は朝倉義景に対し、信長に先んじて美濃を制するように勧めたが、義景は動かず、信長が美濃に戻った後で援軍をよこしただけであった。それでも長政は美濃に攻撃を仕掛けたが、信長は動じず、この攻勢が与えた影響は少なかった。

 6月、小谷城と南方の支城を結ぶ横山城が信長の攻撃を受けた。長政は、朝倉軍の助力を得て横山城の救援に向かったが、「姉川の戦い」に敗れ、致命的な打撃を受けた。しかし、信長は小谷城を包囲せず、浅井軍は体制を立て直すことができた。
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●滅亡
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 1570年9月、信長が「第一次石山の戦い」で摂津にいる間に、長政と朝倉軍は織田軍の宇佐山城に攻め入り、「坂本の戦い」で宇佐山城主の森可成らを戦死させた。長政らは宇佐山城に抑えの兵力を残して京都に向かったが、京都への立ち入りを拒絶されたため、比叡山に籠った。

 信長は比叡山に長政らの引き渡しを求めたが、比叡山は引き渡しを拒み、両軍の対峙は続いた。12月、長政らは朝廷を介した信長の外交政策によって講和することとなり、長政も小谷城に戻った。

 これ以降、磯野員昌ら国人衆が浅井家から離反したため、長政は、その対策に追われることになった。その一方で、長政は織田軍に占領されたままの横山城の奪還を試みたが、秀吉や竹中半兵衛によって撃退された。

 1572年7月より小谷城は信長に包囲され、周囲の支城は次々と攻略されていった。長政は朝倉家に援軍を要請するが、信長が信玄の侵攻に対処するために美濃に退くと、朝倉軍も撤退してしまった。

 1573年4月、信玄の病死によって武田軍は撤退し、7月には義昭も降伏することで信長包囲網は崩壊した。長政は、再び義景に援軍を要請したが、信長は、先に朝倉軍に攻撃を仕掛け、ほぼ半月で朝倉家を滅ぼした。もはや阻む者のいなくなった状態で小谷城への総攻撃が行われると、長政は降伏勧告を拒み、市と3人の娘を信長に引き渡した後に自害した。
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●ゲーム  
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 プレイヤーが浅井家を担当する場合は、身分の高さと「戦闘」が役に立ち、敵に回せば脅威となる。また、本作では「謀略」も高く評価されている。これは、信長に対する裏切りを朝倉家に対する恩義ではなく、天下に最も近い信長を倒し、その勢力を飲み込もうとしたという視点で能力を評価しているためであると考えられる。

 シナリオ3と6の長政は、浅井家の「主君」であり、「忠臣属性」も「◎」であるため、家臣にすることはできない。しかし、シナリオ2では、浅井久政の息子としてゲーム開始年の翌年に元服するため、翌年1月までに浅井家を滅ぼせば、長政は浪人として登場するため、彼を「登用」することができる。もっとも、猶予は5ヶ月しかないため、あまり現実的とは言えない。
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