●能力値 |
名前 |
明智光秀 |
能力 |
戦闘 |
内政 |
外交 |
謀略 |
忠臣 |
読み |
あけち・みつひで |
能力値 |
B |
A |
B |
C |
× |
生没年 |
1528〜1582 |
軍師 |
― |
― |
― |
― |
顔 |
登場年 |
1544年 |
上昇 |
○ |
○ |
○ |
― |
固有 |
血族 |
明智 |
備考 |
織田四天王 |
●シナリオ |
シナリオ |
所属勢力 |
身分 |
居城 |
初期知行 |
兵種 |
S1 |
3年後 |
組頭 |
岩村城 |
0.0万石 |
足軽 |
S2 |
斎藤家 |
部将 |
岩村城 |
1.0万石 |
足軽 |
S3 |
織田家 |
重臣 |
二条城 |
2.0万石 |
鉄砲 |
S4 |
明智家 |
主君 |
二条城 |
15万石 |
鉄砲 |
S5 |
― |
― |
― |
― |
― |
S6 |
明智家 |
主君 |
丹波亀山城 |
9.2万石 |
鉄砲 |
●俗説による前半生 |
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1528〜1582。現在においても光秀の前半生は確定していないが、少なくとも本作では、土岐氏の支流の明智家出身とする説に従っているようである。この説の場合、光秀は土岐本家を美濃から追放した斎藤道三に仕え、道三と息子の義龍が対立した際には道三に味方したため、道三を倒した義龍によって国を追われている。
その後、光秀は越前に逃れて朝倉義景に仕えた。この間に都では将軍の足利義輝が三好三人衆らに殺され、その弟の義昭が義景の庇護を求めた。光秀は義昭の知己を得ると、人脈を活かして義昭を信長に引き合わせ、以降は幕臣となりながら、信長と行動をともにしたという。
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●織田家家臣時代 |
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1568年9月、光秀は信長、義昭らの上洛に従った。10月、光秀は信長から義昭の警護を任せられたが、信長が美濃に帰還した隙をついた三好軍は、義昭の仮御所であった本圀寺を襲撃した。光秀らは織田家の援軍が来るまで持ちこたえ、援軍の助力を得て三好軍を撃退した。これ以降、光秀は京都一帯の政務を担当し、羽柴秀吉、丹羽長秀らとの連署に名前が見られるようになる。
1570年4月より光秀は信長の越前遠征に従ったが、この遠征は浅井家が織田家を裏切り、退路を断つかたちになったことで失敗した。撤退にあたり、秀吉が殿軍を務めあげたことは勇名であるが、光秀も殿軍となった武将の1人であったらしい。撤収後、光秀は近江を中心に浅井、朝倉軍との戦いを続け、年末には「坂本の戦い」で戦死した森可成の代わりに宇佐山城主となった。
1571年9月、光秀は、浅井、朝倉軍に味方した延暦寺の焼き討ちを行った。この功績により、光秀は信長から近江国志賀郡の統治を任され、拠点として坂本城の築城をはじめた。1573年から信長と義昭の対立が決定的になると、光秀は信長を選び、義昭側の諸城を攻略した。義昭追放後、光秀は朝倉、浅井、本願寺との戦いに従軍している。
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●丹波方面軍団長時代 |
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1575年6月、光秀は信長の命で丹波攻略を指揮した。まず光秀は、赤井直正の籠る黒井城を包囲するが、8月からは信長の指揮下に入り、越前の一向一揆鎮圧に従事した。光秀は秀吉とともに海路で一揆軍の後方に回り、本隊に追われて壊走する一揆軍を殲滅したという。
1576年1月、丹波の光秀軍は、波多野秀治の裏切りもあって撃退されたが、光秀は信長の指揮下に入ったまま5月には本願寺の包囲に加わり、1577年2月から信長指揮下のまま紀伊の雑賀衆と交戦、10月からは織田信忠に従い、反旗を翻した大和の松永久秀の討伐にあたった。
久秀の死後、その月のうちに光秀は再び丹波攻略の指揮官となり、籾井城と丹波亀山城を攻略、1578年3月には、丹後方面を指揮する細川幽斎の助力を得て波多野家の八上城を包囲したが、5月には再び信忠の指揮下に入り、中国地方を担当する秀吉の救援に向かった。7月、摂津の荒木村重が反乱を起こすと、光秀は秀吉、松井友閑らとともに説得にあたったが、これは失敗している。
1579年6月、光秀は八上城を攻略、波多野秀治、秀尚兄弟を信長のもとに送ったが、彼らは信長によって殺された。続いて8月より黒井城の攻略に着手、その月のうちに黒井城を落とし、丹波の有力勢力を一掃した。その後は10月19日まで村重の反乱鎮圧に従軍、24日に安土城に凱旋した。1580年、光秀は信長から丹波1国を与えられて一国の領主となり、近畿一帯の軍事指揮権を与えられた。
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●本能寺の変 |
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丹波領主となった光秀は、娘婿の秀満に福知山城、親族の斎藤利三に黒井城を任せた。また、本人も由良川の治水、税の免除などの善政を行い、領民の支持を得た。1581年2月28日、光秀は信長から「京都御馬揃え」の運営を一任された。ここでは光秀自らも3番手に名を連ね、大和衆と上山城衆を引き連れて京都を行進している。
1582年2月からの武田家との戦いにおいて、光秀は信長本体に直属した。そのため、実際に戦いをすることはなかったと思われる。5月、家康が信長から駿河一国を与えられた返礼に訪れると、光秀は饗応役となった。しかし、毛利家と交戦中の秀吉から救援要請が来ると、光秀は信長から饗応役の任を解かれ、秀吉の救援を命じられた。
5月26日、光秀は戦闘準備を整えて丹波を出立、6月1日に京都に入り、秀満、利三らに心中を明かした。翌日、光秀は本能寺において信長を襲撃、さらに二条城に攻め寄せて信忠らを殺すと、安土城を占拠して近江を支配下に収めた。
続いて光秀は、丹後の細川幽斎、大和の筒井順慶に協力を要請したが、幽斎は信長の喪を弔うことで明確な拒否の意を示し、順慶は日和見を決め込んだ。こうした不安定の状況のまま、光秀は急遽中国地方から撤収してきた秀吉軍と戦うことになった。6月13日、光秀は「山崎の戦い」で秀吉軍に敗れ、逃走中の落ち武者狩りによって殺された。
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●ゲーム |
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能力は「謀略」以外はいずれも高く、さらに成長しやすい。そのうえ、「忠臣属性」も低いため、引き抜きには最適の人材である。シナリオ1でも3年後に岩村城で浪人として登場するため、スカウト要因を向かわせるだけの価値はある。
、シナリオ2では、すでに美濃を追われて流浪の旅に出ているはずであるが、一族とともに岩村城にいる。このシナリオの光秀は危険性が低いという意味で引き抜きやすく、多少無理をしてでも引き抜く価値がある。
シナリオ3でも引き抜きやすいことに変わりはないが、織田家の本隊に属しやすいために工作員が捕まりやすく、引き抜きは難しい。また、シナリオ3では彼がキーパーソンとなる「本能寺の変」イベントが起こりやすい点にも注意する必要がある。
シナリオ4と6では「主君」として明智家を率いている。シナリオ4では、開始年が没年である点に注意したい。なお、明智家が滅びた場合、彼は明智家を滅ぼした勢力の家臣となるか、浪人として在野に下る可能性が高い。家臣にできれば大きな戦力となるため、明智家が滅んだ場合、彼の動向には注目した方が良い。
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