| ●能力値 |
| 名前 |
石田三成 |
能力 |
戦闘 |
内政 |
外交 |
謀略 |
忠臣 |
| 読み |
いしだ・みつなり |
能力値 |
C |
A |
B |
A |
○ |
| 生没年 |
1560〜1619 |
軍師 |
― |
― |
― |
― |
顔 |
| 登場年 |
1576年 |
上昇 |
― |
― |
― |
― |
固有 |
| 血族 |
石田? |
備考 |
五奉行 |
| ●シナリオ |
| シナリオ |
所属勢力 |
身分 |
居城 |
初期知行 |
兵科 |
| S1 |
35年後 |
地侍 |
? |
0.0万石 |
? |
| S2 |
16年後 |
地侍 |
? |
0.0万石 |
? |
| S3 |
4年後 |
地侍 |
小谷城 |
0.0万石 |
足軽 |
| S4 |
羽柴家 |
組頭 |
姫路城 |
0.3万石 |
足軽 |
| S5 |
豊臣家 |
家老 |
佐和山城 |
15.0万石 |
大筒 |
| S6 |
豊臣家 |
奉行 |
大坂城 |
1.8万石 |
足軽 |
| ●秀吉家臣として |
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1560〜1600。正澄の弟。秀吉が近江国長浜の領主になると、兄とともに臣従する。これについては、三成が寺小姓であったころ、寺に立ち寄った秀吉に「三杯の茶」を差出し、その機転を評価した秀吉に召し抱えられたという説もある。
三成は、秀吉の中国地方への侵攻に従い、「本能寺の変」以後は「賤ヶ岳の戦い」や「小牧長久手の戦い」に従軍して武功を立てている。1585年、秀吉が関白に就任すると、従五位下、治部少輔に就任した。
1587年からの九州遠征において、三成は堺奉行として後方より兵站を担当し、前線への補給を滞りなく達成した。また、戦後は島津義久の降伏を秀吉に斡旋、さらには博多奉行となり、その復興事業も担当している。
1589年の関東遠征の際には、一隊を率いて北条家の支城攻略に従事した。その1つの館林城の攻略には成功したが、忍城に対しては水攻めに失敗し、小田原城の落城まで陥落させることはできなかった。
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| ●唐入り |
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1592年からの「文禄の役」では、増田長盛、大谷吉継とともに「三奉行」を務め、5月に先鋒が漢城を占領すると、三成らは漢城より全軍を監督した。しかし、明軍の参戦とともに日本軍の侵攻は鈍りはじめた。
1593年2月12日、三成らは、漢城近くの幸州山の古城に集結した朝鮮軍を叩くべく出陣したが、天険に進軍を遮られ、攻撃は失敗した。しかし、幸州山の守将も日本軍の再度の進撃を警戒して撤収したため、一応の目的は果たすことができた。
4月17日、明の使者との講和交渉が行われることとなり、翌日には三成らも漢城から撤退した。5月8日、三成らは釜山から明の使者と捕虜となった朝鮮の王子2人を引き連れて日本に戻った。
その後、「慶長の役」がはじまるまでの間、三成は「太閤検地」を主導している。しかし、それ以前より、三成は近江や美濃の検地を行っており、このころから検地がはじめられたというものではない。また、1595年には「秀次事件」において豊臣秀次を詰問し、この年のうちに近江国佐和山19万石を得ている。
続く「慶長の役」では、三成は朝鮮半島に渡らず、日本に留まった。1598年7月、三成は長盛、長束正家、浅野長政、前田玄以らとともに奉行に任じられた。これを俗に「五奉行」という。
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| ●秀吉の死と失脚 |
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1598年8月18日に秀吉は死去した。三成と長政は喪を伏せるように命じられていたが、ただちに三成は家康に秀吉の死を報告した。そのため、家康は三成に感謝しつつ、長政に不信感を抱いたという。
家康と前田利家の主導で「慶長の役」からの撤収が行われると、三成らは博多で派兵諸侯の帰国準備をはじめた。11月には撤兵が完了したが、加藤清正、浅野幸長らの三成に対する不信は強く、三成のねぎらいの言葉に皮肉で返した。
「唐入り」の決着がつくと、家康は諸侯と積極的な交際をはじめた。三成は、そうした家康の動きを警戒し、実際に接触を持った島津義久を糾弾している。1599年3月11日、三成は長盛、正家、小西行長らとともに前田利家の見舞いに訪れた家康の襲撃を計画したが、すぐに家康は伏見に戻ってしまったため、計画も流れた。
一方、清正ら武断派も三成の襲撃を計画していた。三成は利家の庇護を受けていたが、閏3月3日に利家が死に、清正らの計画も実現性を帯びた。三成は佐竹義宣の勧めで家康の庇護を求めた。家康は三成を受け入れ、清正らを解散させたが、三成もまた、奉行職を辞することとなり、所領の佐和山に退いた。
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| ●家康打倒の決起 |
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このころ、会津の上杉景勝は軍備を増強しており、家康は警戒を強めていた。これについては、三成と上杉家家老の直江兼続の共謀によるものとする説がある。1600年6月、家康は会津への遠征を布告し、動員のために大阪を離れて江戸に移った。
7月、三成は吉継を説き伏せて味方につけ、続いて長盛、正家、安国寺恵瓊らと謀って毛利輝元を盟主として推戴する準備を整えた。さらに、兄の正澄には近江の愛知川を封鎖させ、西方諸侯が家康と合流するのを防がせた。鍋島勝茂などは、これによって西軍への参加を余儀なくされている。
さらに三成らは、家康に従っている諸侯の妻子を人質に取ろうとしたが、その多くには逃げられ、中には細川ガラシャのように自害する者もあったため、それぞれの屋敷を封鎖し、監視を置くに留めた。
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| ●関ヶ原の戦い・前哨戦 |
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8月11日、三成は大垣城に入り、美濃の織田秀信を味方に引き入れた。しかし、8月22日には会津から引き返してきた東軍の先鋒が美濃に侵攻してきたため、三成は大垣城から沢渡村に移り、行長、島津義弘らとともに迎撃の準備を整えたが、三成配下の舞兵庫らは合渡川で東軍に敗れた。
知らせを受けた三成は大垣城に引き返そうとしたが、そうなると、墨俣に展開している島津軍が取り残されてしまう。そのため、義弘らは三成を引き留めたが、三成は単独で撤退した。
取り残された義弘は兵士を撤収させると、東軍の追撃がないことを確認したうえで後退した。三成は義弘らを出迎えたが、この時の確執が「関ヶ原の戦い」に影響を与えたとする見方もある。
大垣城に戻った三成は、各地に展開していた諸侯を呼び寄せた。新たに合流した宇喜多秀家は、美濃の戦いで疲弊している東軍を即座に叩くように主張したが、三成は一帯の地形に水田が多く、大軍を展開できないことから、この案を採用しなかった。
そのころ、東軍は大垣城の目前、赤坂にまで迫っていたが、いったんここで進撃を停止し、家康の到着を待った。三成は、東軍が大垣城を迂回して佐和山城に攻撃を仕掛けてくると判断し、北陸の吉継と大坂の毛利輝元に支援を求める一方、自らは佐和山城に下がり、城の守りを固めた。これよりおよそ1か月の間、両軍はにらみ合いを続けることになる。
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| ●関ヶ原の戦い |
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9月14日に家康が赤坂に到着すると、三成は秀家とともに兵を率いて東軍を偵察し、家康の到着を確認した。三成の家臣の島左近が出兵を申し出たため、三成が承諾すると、左近は杭瀬川の戦いで勝利を収め、西軍の士気を高めた。
この日のうちに、東軍は三成の想定通り、大垣城を迂回して佐和山城を目指し、最終的には大坂に達するルートを取ろうとした。三成は関ヶ原で東軍を迎撃することとしたが、義弘は、即座に夜戦を行うように主張した。しかし、左近が夜襲案に反対したことから、三成は義弘の案を退けた。
夜間の移動の際、途中で雨が降ったことにより、西軍諸将は寒さに震えながらの行軍となった。さらに悪いことに、大坂の輝元に送った使者は東軍に捕えられて出兵が遅れ、その間に長盛が東軍に内通しているといううわさが流れたため、輝元は出兵を見送った。つまり、関ヶ原の西軍は、総大将を欠き、意志の統一ができないまま戦わなくてはならなかったのである。
三成の兵およそ6000人は、加藤嘉明、金森長近、黒田長政、竹中重門、田中吉政、細川忠興らの総勢16000人以上の攻撃を受けた。陣を出て黒田隊と衝突した左近の部隊は撃破されたが、残る兵は陣にこもって田中隊を退け、さらには攻勢に転じた。しかし、加藤隊と細川隊に側面をつかれて後退するなど、戦況は一進一退の様相を見せた。
こうした状況を打開すべく、三成は義弘に助力を仰ぎ、ついには自ら彼のもとに出向いたが、義弘は頑として動かなった。さらに三成は、狼煙を上げて松尾山の小早川秀秋と南宮山の毛利秀元に好機の到来を知らせたが、彼らもまた、兵を動かそうとはしなかった。
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| ●西軍の崩壊、その後の処置 |
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秀秋が西軍に向かって進撃を開始し、秀家、行長の部隊が崩れると、三成の部隊もまた崩壊した。家臣の蒲生郷舎、舞兵庫らは戦死したが、三成は大坂城で再起するため、後方の伊吹山に逃げ込んだ。しかし、長政の追撃を振り切ったものの、逃走中に体調を崩し、岩穴の中の堂で療養しているところを吉政の部下に発見された。
9月21日、三成は家康のもとに引き立てられた。秀秋が三成の様子を見に来ると、三成は彼を罵倒した。また、家康から寒さをしのぐための小袖を渡されたが、使者が「上様より」と申し伝えると、「上様は最近亡くなったばかりである」と秀吉に対する忠義を見せ、小袖は着なかった。
10月1日、三成は行長、恵瓊とともに一連の戦乱の首謀者として六条河原で処刑された。彼の旧領佐和山は井伊直政に与えられて彦根藩となったが、領民は三成を慕う者が多く、直政は、あえて彼らを黙殺することで信頼を得たという。
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| ●ゲーム |
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三成と言えば、やはり『信長の野望覇王伝・武将FILE』の酷評ぶりである。その結びでは、「限りなく正しく、限りなく下らない。全く、つまらぬ男もいたものである」とまで言われてしまっている。
さらに、「三杯の茶」のエピソードに関しても、「十五か十六でこんな小細工を弄する奴は、何となくひね媚びていかにも器の小さい感じがする。こんな小細工に感心して取り立てた秀吉もどうかと思う」とボロクソである。『信長の野望覇王伝・事典』では、この件を取り上げたうえでフォローさえしている。
本作の三成もまた、当然のように「内政」が高い。さらに「外交」も高いが、外交要員として敵地に派遣すると、「内政」を生かせない。ここは、内政のあいまに「登用」を行うような活用をするべきであると思われる。
なお、シナリオ5では最初から家老としては最大の15万石があてがわれ、さらには「大筒」まで装備している。これだけの材料がそろっているならば、もはや優先して戦闘に投入するべきであると言える。ただし、本作の「大筒」は野戦では使えないため、その力は攻城戦で発揮されることになる。
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