戦国夢幻

 

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   戦国夢幻 武将 い  
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●能力値
名前 石川頼明 能力 戦闘 内政 外交 謀略 忠臣
読み いしかわ・よりあき 能力値 B E D E
生没年 1560〜1624 軍師
登場年 1576年 上昇 汎用
血族 備考  
●シナリオ
シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵科
S1
S2
S3
S4
S5 豊臣家 組頭 大坂城 0.3万石 足軽
S6
●略歴
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 ?〜1600。「賤ヶ岳七本槍」から漏れたことで知られる石河兵助の弟。兵助が戦傷死したことから、秀吉に引き立てられ、その小姓となる。「豊家の変」では1万2000石を有する大名として西軍に参加、伏見城を攻略した後は大津城を占領し、その守備に回るが、「関ヶ原の戦い」後に降伏、自害した。
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●ゲーム
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 本作ではシナリオ5のみの登場となっている。「戦闘」だけは高いが身分は低く、、まずは内政で身分をあげておかないと使い物にならない。
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●能力値
名前 石田正澄 能力 戦闘 内政 外交 謀略 忠臣
読み いしだ・まさずみ 能力値 D B C C
生没年 1558〜1600 軍師
登場年 1574年 上昇 汎用
血族 石田? 備考  
●シナリオ
シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵科
S1 33年後 0.0万石
S2
S3 2年後 組頭 小谷城 0.0万石 足軽
S4 羽柴家 地侍 姫路城 0.1万石 足軽
S5 豊臣家 組頭 佐和山城 1.0万石 足軽
S6 豊臣家 地侍 大坂城 0.1万石 足軽
●略歴
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 ?〜1600。三成の兄。三成とともに秀吉に仕え、堺町奉行などで行政手腕を発揮、近江に15000石を有する。「豊家の変」の際には佐和山城から出兵した三成に代わって佐和山城を守った。

 さらに、正澄は三成の命で近江の愛知川を封鎖し、西国諸侯が会津に遠征中の家康と合流するのを防いだ。これにより、鍋島勝茂などは、西軍への参加を余儀なくされている。

 「関ヶ原の戦い」後、正澄らは佐和山城の陥落が不可避であると考え、先に兵士たちの退去を許した。その結果、2800人ほどの兵が残り、9月17日より小早川秀秋率いる15000人の兵の攻撃を迎え撃った。

 その日のうちに家康から降伏勧告の使者が送られ、正澄は自分の命と引き換えに兵の助命を約束した。しかし、城内に謀反者が現れ、佐和山城の本丸に火を放ったため、正澄は妻子および一族とともに自害した。
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●ゲーム
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 シナリオ3では2年後に登場する。弟の三成とは血縁関係にあると思われるが、彼を家臣にしていても、三成は浪人として登場する。彼に関しては、最初から最後まで内政を行わせることだけを考えておけばよい。
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●能力値
名前 石田三成 能力 戦闘 内政 外交 謀略 忠臣
読み いしだ・みつなり 能力値 C A B A
生没年 1560〜1619 軍師
登場年 1576年 上昇 固有
血族 石田? 備考 五奉行 
●シナリオ
シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵科
S1 35年後 地侍 0.0万石
S2 16年後 地侍 0.0万石
S3 4年後 地侍 小谷城 0.0万石 足軽
S4 羽柴家 組頭 姫路城 0.3万石 足軽
S5 豊臣家 家老 佐和山城 15.0万石 大筒
S6 豊臣家 奉行 大坂城 1.8万石 足軽
●秀吉家臣として
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 1560〜1600。正澄の弟。秀吉が近江国長浜の領主になると、兄とともに臣従する。これについては、三成が寺小姓であったころ、寺に立ち寄った秀吉に「三杯の茶」を差出し、その機転を評価した秀吉に召し抱えられたという説もある。

 三成は、秀吉の中国地方への侵攻に従い、「本能寺の変」以後は「賤ヶ岳の戦い」や「小牧長久手の戦い」に従軍して武功を立てている。1585年、秀吉が関白に就任すると、従五位下、治部少輔に就任した。

 1587年からの九州遠征において、三成は堺奉行として後方より兵站を担当し、前線への補給を滞りなく達成した。また、戦後は島津義久の降伏を秀吉に斡旋、さらには博多奉行となり、その復興事業も担当している。

 1589年の関東遠征の際には、一隊を率いて北条家の支城攻略に従事した。その1つの館林城の攻略には成功したが、忍城に対しては水攻めに失敗し、小田原城の落城まで陥落させることはできなかった。
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●唐入り
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 1592年からの「文禄の役」では、増田長盛、大谷吉継とともに「三奉行」を務め、5月に先鋒が漢城を占領すると、三成らは漢城より全軍を監督した。しかし、明軍の参戦とともに日本軍の侵攻は鈍りはじめた。

 1593年2月12日、三成らは、漢城近くの幸州山の古城に集結した朝鮮軍を叩くべく出陣したが、天険に進軍を遮られ、攻撃は失敗した。しかし、幸州山の守将も日本軍の再度の進撃を警戒して撤収したため、一応の目的は果たすことができた。

 4月17日、明の使者との講和交渉が行われることとなり、翌日には三成らも漢城から撤退した。5月8日、三成らは釜山から明の使者と捕虜となった朝鮮の王子2人を引き連れて日本に戻った。

 その後、「慶長の役」がはじまるまでの間、三成は「太閤検地」を主導している。しかし、それ以前より、三成は近江や美濃の検地を行っており、このころから検地がはじめられたというものではない。また、1595年には「秀次事件」において豊臣秀次を詰問し、この年のうちに近江国佐和山19万石を得ている。

 続く「慶長の役」では、三成は朝鮮半島に渡らず、日本に留まった。1598年7月、三成は長盛、長束正家、浅野長政、前田玄以らとともに奉行に任じられた。これを俗に「五奉行」という。
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●秀吉の死と失脚
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 1598年8月18日に秀吉は死去した。三成と長政は喪を伏せるように命じられていたが、ただちに三成は家康に秀吉の死を報告した。そのため、家康は三成に感謝しつつ、長政に不信感を抱いたという。

 家康と前田利家の主導で「慶長の役」からの撤収が行われると、三成らは博多で派兵諸侯の帰国準備をはじめた。11月には撤兵が完了したが、加藤清正、浅野幸長らの三成に対する不信は強く、三成のねぎらいの言葉に皮肉で返した。

 「唐入り」の決着がつくと、家康は諸侯と積極的な交際をはじめた。三成は、そうした家康の動きを警戒し、実際に接触を持った島津義久を糾弾している。1599年3月11日、三成は長盛、正家、小西行長らとともに前田利家の見舞いに訪れた家康の襲撃を計画したが、すぐに家康は伏見に戻ってしまったため、計画も流れた。

 一方、清正ら武断派も三成の襲撃を計画していた。三成は利家の庇護を受けていたが、閏3月3日に利家が死に、清正らの計画も実現性を帯びた。三成は佐竹義宣の勧めで家康の庇護を求めた。家康は三成を受け入れ、清正らを解散させたが、三成もまた、奉行職を辞することとなり、所領の佐和山に退いた。
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●家康打倒の決起
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 このころ、会津の上杉景勝は軍備を増強しており、家康は警戒を強めていた。これについては、三成と上杉家家老の直江兼続の共謀によるものとする説がある。1600年6月、家康は会津への遠征を布告し、動員のために大阪を離れて江戸に移った。

 7月、三成は吉継を説き伏せて味方につけ、続いて長盛、正家、安国寺恵瓊らと謀って毛利輝元を盟主として推戴する準備を整えた。さらに、兄の正澄には近江の愛知川を封鎖させ、西方諸侯が家康と合流するのを防がせた。鍋島勝茂などは、これによって西軍への参加を余儀なくされている。

 さらに三成らは、家康に従っている諸侯の妻子を人質に取ろうとしたが、その多くには逃げられ、中には細川ガラシャのように自害する者もあったため、それぞれの屋敷を封鎖し、監視を置くに留めた。
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●関ヶ原の戦い・前哨戦
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 8月11日、三成は大垣城に入り、美濃の織田秀信を味方に引き入れた。しかし、8月22日には会津から引き返してきた東軍の先鋒が美濃に侵攻してきたため、三成は大垣城から沢渡村に移り、行長、島津義弘らとともに迎撃の準備を整えたが、三成配下の舞兵庫らは合渡川で東軍に敗れた。

 知らせを受けた三成は大垣城に引き返そうとしたが、そうなると、墨俣に展開している島津軍が取り残されてしまう。そのため、義弘らは三成を引き留めたが、三成は単独で撤退した。

 取り残された義弘は兵士を撤収させると、東軍の追撃がないことを確認したうえで後退した。三成は義弘らを出迎えたが、この時の確執が「関ヶ原の戦い」に影響を与えたとする見方もある。

 大垣城に戻った三成は、各地に展開していた諸侯を呼び寄せた。新たに合流した宇喜多秀家は、美濃の戦いで疲弊している東軍を即座に叩くように主張したが、三成は一帯の地形に水田が多く、大軍を展開できないことから、この案を採用しなかった。

 そのころ、東軍は大垣城の目前、赤坂にまで迫っていたが、いったんここで進撃を停止し、家康の到着を待った。三成は、東軍が大垣城を迂回して佐和山城に攻撃を仕掛けてくると判断し、北陸の吉継と大坂の毛利輝元に支援を求める一方、自らは佐和山城に下がり、城の守りを固めた。これよりおよそ1か月の間、両軍はにらみ合いを続けることになる。
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●関ヶ原の戦い
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 9月14日に家康が赤坂に到着すると、三成は秀家とともに兵を率いて東軍を偵察し、家康の到着を確認した。三成の家臣の島左近が出兵を申し出たため、三成が承諾すると、左近は杭瀬川の戦いで勝利を収め、西軍の士気を高めた。

 この日のうちに、東軍は三成の想定通り、大垣城を迂回して佐和山城を目指し、最終的には大坂に達するルートを取ろうとした。三成は関ヶ原で東軍を迎撃することとしたが、義弘は、即座に夜戦を行うように主張した。しかし、左近が夜襲案に反対したことから、三成は義弘の案を退けた。

 夜間の移動の際、途中で雨が降ったことにより、西軍諸将は寒さに震えながらの行軍となった。さらに悪いことに、大坂の輝元に送った使者は東軍に捕えられて出兵が遅れ、その間に長盛が東軍に内通しているといううわさが流れたため、輝元は出兵を見送った。つまり、関ヶ原の西軍は、総大将を欠き、意志の統一ができないまま戦わなくてはならなかったのである。

 三成の兵およそ6000人は、加藤嘉明、金森長近、黒田長政、竹中重門、田中吉政、細川忠興らの総勢16000人以上の攻撃を受けた。陣を出て黒田隊と衝突した左近の部隊は撃破されたが、残る兵は陣にこもって田中隊を退け、さらには攻勢に転じた。しかし、加藤隊と細川隊に側面をつかれて後退するなど、戦況は一進一退の様相を見せた。

 こうした状況を打開すべく、三成は義弘に助力を仰ぎ、ついには自ら彼のもとに出向いたが、義弘は頑として動かなった。さらに三成は、狼煙を上げて松尾山の小早川秀秋と南宮山の毛利秀元に好機の到来を知らせたが、彼らもまた、兵を動かそうとはしなかった。
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●西軍の崩壊、その後の処置
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 秀秋が西軍に向かって進撃を開始し、秀家、行長の部隊が崩れると、三成の部隊もまた崩壊した。家臣の蒲生郷舎、舞兵庫らは戦死したが、三成は大坂城で再起するため、後方の伊吹山に逃げ込んだ。しかし、長政の追撃を振り切ったものの、逃走中に体調を崩し、岩穴の中の堂で療養しているところを吉政の部下に発見された。

 9月21日、三成は家康のもとに引き立てられた。秀秋が三成の様子を見に来ると、三成は彼を罵倒した。また、家康から寒さをしのぐための小袖を渡されたが、使者が「上様より」と申し伝えると、「上様は最近亡くなったばかりである」と秀吉に対する忠義を見せ、小袖は着なかった。

 10月1日、三成は行長、恵瓊とともに一連の戦乱の首謀者として六条河原で処刑された。彼の旧領佐和山は井伊直政に与えられて彦根藩となったが、領民は三成を慕う者が多く、直政は、あえて彼らを黙殺することで信頼を得たという。
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●ゲーム
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 三成と言えば、やはり『信長の野望覇王伝・武将FILE』の酷評ぶりである。その結びでは、「限りなく正しく、限りなく下らない。全く、つまらぬ男もいたものである」とまで言われてしまっている。

 さらに、「三杯の茶」のエピソードに関しても、「十五か十六でこんな小細工を弄する奴は、何となくひね媚びていかにも器の小さい感じがする。こんな小細工に感心して取り立てた秀吉もどうかと思う」とボロクソである。『信長の野望覇王伝・事典』では、この件を取り上げたうえでフォローさえしている

 本作の三成もまた、当然のように「内政」が高い。さらに「外交」も高いが、外交要員として敵地に派遣すると、「内政」を生かせない。ここは、内政のあいまに「登用」を行うような活用をするべきであると思われる。

 なお、シナリオ5では最初から家老としては最大の15万石があてがわれ、さらには「大筒」まで装備している。これだけの材料がそろっているならば、もはや優先して戦闘に投入するべきであると言える。ただし、本作の「大筒」は野戦では使えないため、その力は攻城戦で発揮されることになる。
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●能力値
名前 石橋義忠 能力 戦闘 内政 外交 謀略 忠臣
読み いしばし・よしただ 能力値 C C D D
生没年 1537〜1601 軍師
登場年 1553年 上昇 汎用
血族 備考  
●シナリオ
シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵科
S1
S2
S3 浪人 組頭 長島城 0.0万石 足軽
S4 浪人 地侍 長島城 0.0万石 足軽
S5
S6
●略歴
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 生没年不詳。斯波義銀の親族。義銀らとともに信長排斥の陰謀を目論むが、露見して尾張を追われた。後に長島一揆に合流し、信長と戦う。
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●ゲーム
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 本作ではシナリオ3とシナリオ4だけに登場している。本来ならば、願証寺の家臣として登場するべきであると思うが、シナリオ3の時点で長島城が織田家の所領となっているため、彼は浪人である。

 能力は平均以下で見るべきものはないが、身分が低くいだけ負担も少ないため、 「登用」して身分を上げていけば、少ない知行で「内政」に役立たせることができる。
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●能力値
名前 石母田景頼 能力 戦闘 内政 外交 謀略 忠臣
読み いしもだ・かげより 能力値 C B C C
生没年 1551〜1615 軍師
登場年 1567年 上昇 汎用
血族 備考  
●シナリオ
シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵科
S1
S2 7年後 部将 0.0万石
S3 伊達家 部将 千代城 0.2万石 足軽
S4 伊達家 部将 千代城 0.2万石 足軽
S5 伊達家 部将 千代城 0.2万石 足軽
S6
●略歴
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 1559〜1625。陸奥国伊達郡石母田城城主。輝宗、政宗の二代に仕え、政宗が小田原に参陣した際には二本松城を守る。「奥州仕置」によって伊達郡が上杉家の領土になると、景頼の居城は陸奥国伊具郡荒山城に移った。

 1592年からは政宗に従い、「文禄の役」に従軍した。1595年、政宗が「秀次事件」に連座した疑いがかけられた際には、釈明のために上京した政宗に従い、最後まで人質として伏見に残った。

 「豊家の変」では、上杉家の領土となっていた旧伊達領への侵攻に従軍、「大坂冬の陣」にも参加しているが、政宗の息子の秀宗が伊予国宇和島の領主となると、その筆頭家老として秀宗に随従した。
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●ゲーム
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 能力的には「内政」が高いが、宇和島藩の初代筆頭家老を務めたこと以外に根拠が見当たらない。彼の登場しているシナリオの伊達家は身分の低い武将が少なく、所有している城の「町の規模」が低いため、はじめから「商業」を行った方が彼の「内政」を生かすことができると思われる。
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●能力値
名前 伊集院忠倉 能力 戦闘 内政 外交 謀略 忠臣
読み いじゅういん・ただあお 能力値 B D D D
生没年 1523〜1562 軍師
登場年 1539年 上昇 汎用
血族 伊集院? 備考  
●シナリオ
シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵科
S1 島津家 家老 出水城 2.0万石 足軽
S2
S3
S4
S5
S6 島津家 部将 出水城 0.3万石 足軽
●略歴
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 生没年不詳。忠朗の息子。忠棟の父。1549年、菱刈氏および北原氏と島津方の樺山氏の抗争を調停した。また、同年に島津貴久と敵対していた肝付兼演が吉田城を攻撃すると、忠倉は忠朗とともに暴風雨に乗じた奇襲攻撃を仕掛け、兼演を降伏させた(「黒川崎の戦い」)。その後は、1558年から1562年まで島津家の家老を務めている。
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●ゲーム
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 没年が1562年に設定されているのは、彼が死ぬまで家老職を務めていたと解釈したものと思われる。能力的には完全な戦闘要員であり、特にシナリオ1では身分が高く、他に 「戦闘」の高い武将が少ないこともあって序盤の主力となる。一方、シナリオ6では身分が中途半端なうえ、島津四兄弟が揃っていることもあり、影が薄くなっている。
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●能力値
名前 伊集院忠朗 能力 戦闘 内政 外交 謀略 忠臣
読み いじゅういん・ただあき 能力値 C C B C
生没年 1500〜1559 軍師
登場年 1516年 上昇 固有
血族 伊集院? 備考  
●シナリオ
シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵科
S1 島津家 重臣 出水城 0.3万石 足軽
S2
S3
S4
S5
S6 島津家 家老 出水城 0.8万石 足軽
●略歴
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 生没年不詳。忠倉の父。1539年より家老となり、1549年の肝付兼演との戦いに従軍する。1554年には岩剣城攻めの際には、島津軍で初めて鉄砲を実践に投入した。1556年に忠朗は家老の座を退いているが、その2年後には忠倉が家老に就任している。

 なお、本作の忠朗の寿命は1559年に設定されてるが、1561年には、鶴を家紋とする肝付家の肝付兼続に鶴の羹を勧めて彼を怒らせ、島津家と肝付家の抗争の発端を作ったという
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●ゲーム
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 能力的には「外交」以外は平凡である。そして、その取り柄の「外交」も、島津家の地勢では外交政策を行う必要がないことから、もっぱら遠国での人材登用で活躍することになりそうである。しかし、肝付家とのやり取りを見ると、高くてしかるべきなのは「謀略」ではないかと思われる。
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●能力値
名前 伊集院忠真 能力 戦闘 内政 外交 謀略 忠臣
読み いじゅういん・ただざね 能力値 C C C C ×
生没年 1569〜1633 軍師
登場年 1585年 上昇 汎用
血族 伊集院 備考  
●シナリオ
シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵科
S1
S2 25年後 家老 0.0万石
S3 13年後 家老 0.0万石
S4 3年後 家老 0.0万石
S5 島津家 重臣 出水城 0.9万石 足軽
S6
●略歴
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 ?〜1602。忠棟の息子。1599年、伏見の島津邸において、忠棟が島津忠恒に殺されると、領地の庄内で反乱を起こした。この時、忠恒は石田三成から忠棟殺しの罪を問われ、高尾山に蟄居していたが、家康が便宜を図ったことで国元に戻ることができた。

 翌年の1600年3月15日、忠真は忠恒に降伏し、所領は日向諸県郡庄内8万石から大隅国帖佐郡2万石に減封された。また、この戦いの影響により、島津家は「関ヶ原の戦い」に大軍を送れなかったという。

 1602年、忠恒は「関ヶ原の戦い」で島津家が徳川家と敵対したことを謝罪するため、家康のもとに参じたが、その際に忠真も同行することになった。しかし、一行が日向国の野尻で狩猟を行った際、忠真は忠恒の意向を受けた家臣によって射殺された。また、同日に忠真の家族も殺され、伊集院一族は滅亡した。
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●ゲーム
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 1585年に忠棟の息子として元服することを確認している。能力的には見るべきものはないが、身分が高いことから、それなりには使い出があると思われる。「忠臣属性」が「×」なのは、「庄内の乱」を引き起こしたからであると思われるが、事情が事情だけに、これを「不義理」というのもどうかと思う。
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●能力値
名前 伊集院忠棟 能力 戦闘 内政 外交 謀略 忠臣
読み いじゅういん・ただむね 能力値 C C B B
生没年 1569〜1633 軍師
登場年 1559年 上昇 汎用
血族 伊集院 備考  
●シナリオ
シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵科
S1 18年後 家老 0.0万石
S2 島津家 重臣 出水城 1.0万石 足軽
S3 島津家 重臣 出水城 0.6万石 足軽
S4 島津家 家老 都於郡城 2.0万石 足軽
S5 島津家 家老 出水城 1.6万石 足軽
S6 島津家 重臣 出水城 0.8万石 足軽
●略歴
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 ?〜1599。忠倉の息子。忠真の父。1566年における島津義久の家督相続に伴って家老となり、1587年までの21年間家老職を務めた。1587年4月17日、忠棟は島津義弘に従い、根白坂で豊臣軍と交戦したが、戦いは島津軍の敗北に終わった。

 この後、忠棟は島津家久らとともに恭順派に組し、義久にも早急な降伏を勧める一方、自らも剃髪して豊臣方の大将であった豊臣秀長のもとに出向いて人質となった。こうした事情もあって豊臣政権下では厚遇され、戦後は秀吉より大隅国肝属郡を与えられた。

 しかし、同時に忠棟は豊臣家の意向を島津家に伝える役割を担うこととなり、島津家家臣の反発を招くことになった。さらに、1595年には日向諸県郡庄内8万石に封じられ、島津本家と同等の権威を有するようになると、島津家そのものにとっても警戒するべき存在となってしまう。

 秀吉死後の1599年3月9日、忠棟は伏見の島津邸にて島津忠恒によって殺された。しかし、忠棟と懇意であった石田三成は忠恒を糾弾し、そのために忠恒は一時的に高尾山に蟄居することとなった。
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●ゲーム
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 シナリオ1では、忠倉の息子として元服するものであると思われるが未検証。一方、1585年には、忠真が彼のもとで元服することは確認している。能力的には「外交」と「謀略」が高く、島津家においては島津歳久に次ぐ工作要員となっている。
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●能力値
名前 伊集院久治 能力 戦闘 内政 外交 謀略 忠臣
読み いじゅういん・ひさはる 能力値 B D E C
生没年 1534〜1607 軍師
登場年 1550年 上昇 汎用
血族 伊集院 備考  
●シナリオ
シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵科
S1 9年後 家老 0.0万石 足軽
S2 島津家 重臣 出水城 1.0万石 足軽
S3 島津家 重臣 出水城 0.6万石 足軽
S4 島津家 家老 出水城 4.0万石 足軽
S5 島津家 家老 出水城 1.6万石 鉄砲
S6 島津家 部将 出水城 0.3万石 足軽
●略歴
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 1534〜1607。忠朗の曽祖父の弟の系譜に連なる。肥前の阿蘇家、豊前の大友家との戦いで活躍、1591年から1605年まで島津家の家老を務めるが、義久との意見の対立により、職を辞した。
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●ゲーム
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 本作では伊集院氏の一族に組み込まれており、シナリオ1では1550年に忠朗のもとで元服する。能力的にはほぼ純粋な戦闘要員であり、序盤から主力として使っていける。特にシナリオ5では、最初から 「鉄砲」を装備している点にも注目したい。
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