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●本項の趣旨

 「武将総覧」は、あくまでもゲームに登場している人物を紹介しているが、場合によってはゲームに登場しない人物の名前を出さなくてはならないこともある。しかし、ここで名前だけを出しても、その人物の経歴が分からないと、名前を出した意図が分からなくなることがあるため、必要に応じてゲーム未登場の人物を紹介しておくこととした。

 情報ソースは、手持ちの資料に掲載されていれば、それを参考としたが、特に15世紀の人物については、Wikipediaを主なソースとしている。また、本作の舞台である1541年〜1598年ころまでに活躍した人物については、本作に登場した場合の能力を推定してみることとした。
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赤松義村

 1496〜1520。赤松晴政の父。先代の政則は息子を残さないまま急死したため、婿養子として赤松家を継ぐ。将軍家が義稙と義澄に分かれて対立すると、義村は義澄に味方した。義澄が病死し、両勢力が講和すると、義村は義澄の遺児義晴を引き取った。

 当時、義村は重臣の浦上村宗との抗争に敗れ、すでに晴政に家督を譲っていたが、義晴を旗頭として再度の挙兵を行った。しかし、この決起も失敗に終わり、村宗からの和睦を承諾するが、罠にかかって捕らえられ、後に殺された。
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安芸国虎(あき・くにとら)

 ?〜1569。土佐の豪族。1560年ころより領土紛争を発端として長宗我部家と対立、1563年には、義兄(妻の兄)の一条兼定と組んで長宗我部領に侵攻するが、敗北を重ね、兼定の仲裁によって講和する。

 1569年より、長宗我部家と安芸家は再び対立状態に陥り、今度は長宗我部元親の侵攻を受けることになる。国虎は、各地の守りを固めて長宗我部軍を迎え撃ったが、元親の切り崩し工作によって家臣が次々と離反し、本城の安芸城まで追い詰められたことから、自害して果てた。

 ゲーム的には、元親の切り崩し工作により、戦わずに戦線が崩壊したことから、「謀略」は最低レベル、後は人並み程度の平凡な能力に落ち着くものと思われる。
 
 
朝倉景高

 1495〜1543。孝景の弟。景鏡の父。美濃方面の軍団長的存在であったが、孝景と対立する。京都で孝景追放運動を画策したが、孝景も同様に景高の排斥運動を行い、これに敗れて都を追われた。
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朝倉景豊

 ?〜1503。宗滴の従弟(叔父の息子)であると同時に、宗滴の妻の兄弟でもある。1503年に当主貞景に対する謀反を企て、宗滴らを味方に引き込もうとしたが、宗滴貞景に景豊の計画を打ち明けたため、先手を打った貞景に滅ぼされた。
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朝倉貞景

 1473〜1512。朝倉家の第9代当主。孝景景紀の父。朝倉宗滴とほぼ同時代の人物である。もともと朝倉家は斯波家の越前守護代であったが、貞景の時代に斯波家の斯波義寛と争い、将軍足利義尚から越前支配の正当性を認められた。また、将軍家、管領細川家、六角家などの政権争いにも介入しているが、深追いはせずに、越前に安定をもたらした。
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朝倉孝景

 1428〜1481。本作に登場する同名の人物の曾祖父。朝倉家の第7代当主。宗滴の父。斯波家の家臣として各地で武勲を上げる。1467年の「応仁の乱」では、当初西軍として参戦するが、後に東軍に寝返り、旧主斯波家を相手に越前を武力で制圧、後の朝倉家繁栄の礎を築いた。
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葦名盛舜

 1490〜1553。盛氏の父。松本氏、猪苗代氏らの反乱を鎮圧して家中の混乱を鎮める一方、伊達家、相馬家と同盟して領土の拡張を図った。シナリオ1開始時の1541年に隠居しているためか、ゲームには登場しないが、出ていれば、「戦闘」と「外交」は高くても良いと思われる。
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阿蘇惟豊

 1493〜1559。惟将の父。阿蘇家の内乱を制し(ちなみに、この時に惟豊に負け、阿蘇家を追われたのが惟賢の一族である)、朝廷から従二位阿蘇大宮司に叙任されて阿蘇家の権勢を回復させた。ゲームに登場してれば、阿蘇家の中興の祖として、ある程度の評価はされると思うが、阿蘇家が弱小勢力であるため、目立って高い能力が与えられることはないと考えられる。
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尼子経久

 1458〜1541。政久国久の父。晴久の祖父。尼子家は京極家の出雲守護代であったが、経久は京極家から独立する動きを見せたため、居城の月山富田城を追われた。しかし、経久は自力で月山富田城を奪回して独立を果たし、近隣11ヶ国にまたがる勢力を築いた。

 1518年に嫡男の政久が戦死したことから、経久は1537年に政久の息子の晴久を後継者とした。しかし、晴久では、経久の死後に露呈した数々の問題を対処しきれず、それらが尼子家衰退の遠因となった。

 シナリオ1のスタート年が没年であるため、本作に出そうとと思えば出せないこともなかった武将である。シナリオ6でゲスト出演していれば、尼子家のインパクトも相当強まったものと思われる。登場していれば、能力は全体的に高いが特に「謀略」が突出するであろうことは容易に想像できる。
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尼子政久

 1488〜1518。経久の嫡男。国久の兄。晴久の父。1518年より経久に反旗を翻した桜井宗的の討伐にあたる。宗的は磨石城に籠ったために戦争は長期化し、尼子軍内にも厭戦気分が漂った。政久は、得意の横笛を披露して士気を盛り上げたが、音の出所を突き止めた城兵によって射殺された。磨石城は国久によって攻略されたが、経久の怒りは凄まじく、城兵を皆殺しにしたという。
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池田勝正

 1539〜1578。本作に登場する池田長正の次の摂津池田家当主。荒木村重の項にもあるように、内紛によって当主の地位を追われ、長正の子の知正が時代当主となった。
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池田知正

 1555〜1604。本作に登場する池田長正の息子。先代当主の勝正が当主の地位を追われると、摂津池田家の当主となる。足利義昭が信長に対して挙兵した際、彼に従って信長に反旗を翻したことから没落し、信長に従ったかつての家臣荒木村重の配下に組み込まれた。

 知正については、村重の家臣の荒木久左衛門と同一人物とする説がある。久左衛門は村重とともに有岡城に籠るが、村重の逃走後は信長に降伏した。しかし、その後久左衛門も姿をくらましたため、信長は相次ぐ責任者の逃走に激怒し、残された城兵や家族を皆殺しする一因になったという。
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一色義幸(いっしき・よしゆき)

 生没年不詳。義道義清らの父。幕府より任じられた正式な丹後守護であるが、若狭の武田家とは領土を巡ってしばしば争っていた。1558年に隠居し、長男の義道に家督を譲るが、それ以後の動向は不明であり、没年も定かではない。

 シナリオ1には登場していてもおかしくないはずであるが、本作では、この時点ですでに義道が一色家の当主となっている。登場していても、平凡な能力に落ち着くものと思われるが、人材不足の一色家では、いた方がありがたい存在であることは間違いないはずである。
 
 
浦上村宗

 ?〜1531。政宗、宗景の父。主君の赤松義村が幼少であったことから、赤松家の実権を握る。成長した義村が村宗の排除を画策するようになると、義村の息子の晴政を推戴して義村と戦い、最終的に彼を謀殺した。また、この時に義村に推戴されていた足利義晴を管理下に置いている。

 1531年、村宗は管領細川家の内乱に介入したが、従軍していた晴政は敵方の細川晴元陣営と内通、7月17日の「大物崩れの戦い」において、村宗は晴政に背後を突かれて戦死した。
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鵜殿氏長

 1549〜1624。本作に登場する鵜殿長照の息子。今川家に従うが、1562年に徳川軍に捕らえられる。しかし、徳川方の石川数正の交渉により、今川家の人質となっていた徳川信康ら家康の家族と交換で釈放された。1568年に今川家が滅亡すると、以降は家康に従っている。

 本作には父と祖父が登場しているものの、活躍期間の長い彼は未登場である。登場したとしても、凡将としてしか評価されなかったと思われるが、徳川家臣として「姉川の戦い」や「長篠の戦い」に従軍しているため、「戦闘」は「C」くらいはありそうである。
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海野棟綱

 生没年不詳。真田幸隆の父、あるいは母方の祖父。信濃の国人であったが、1541年に武田信虎、諏訪頼重、村上義清らに信濃を追われ、上野の上杉憲政の信濃侵攻を招く。この際に攻撃を受けた蘆田信守は、すでに憲政と講和していた頼重に降伏することで窮地を切り抜けた。しかし、この侵攻自体は失敗に終わり、棟綱自身の去就も定かではない。

 本作のシナリオ1開始時が、ちょうど信濃を追われた年にあたる。ゲームに登場していれば、浪人か上杉家の配下といったところであるが、やはり能力的には平凡に収まりそうである。
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江間時盛

 1504〜1578。輝盛、信盛の父。姉小路良頼と飛騨の覇権を争い、武田家の後ろ盾を得ようとしたが、輝盛に殺された。その最期からすると、「謀略」は特に低く評価されそうである。
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大内義興

 1477〜1529。大内義隆の父。「明応の政変」によって都を追われた将軍義稙を庇護し、彼のために上洛作戦を敢行した。その結果、義稙と対立していた将軍義澄は近江に逃れ、義澄の近江滞在中に義晴が産まれている。
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大井貞隆

 生没年不詳。信濃小笠原氏の庶流として蘆田信守らを従えるが、武田家の信濃侵攻の際に滅ぼされる。本作に登場していても、能力的には平均以下であったと思われる。
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楽巌寺雅方

 生没年不詳。信濃国楽巌寺城城主。「らくがんじ」と呼ばれることもあるが、「がくがんじ」が正しいらしい。村上義清らとともに武田信玄の信濃侵攻に抵抗する。1547年2月には、板垣信方が繰り出した斥候部隊を補足するが、原虎胤に退けられた。義清の敗北後は信玄に服属している。
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●菊池義武(きくち・よしたけ)

 ?〜1554。大友義鑑の弟。1520年に兄の後押しで肥後菊池家の当主となり、隈本城の城主となる。1534年、義武は大友家に対して反旗を翻すが失敗し逃亡、1540年に再起して隈本城を奪還するが、この時も最終的には戦いに敗れて潜伏している。

 1550年、「二階崩れの変」によって義鑑が殺されると、義武は3度目の蜂起によって再び隈本城を奪還するが、変後の混乱をいち早く取りまとめた大友宗麟によって撃退された。その後、1554年になると、宗麟が講和を求めてきたため、義武は帰国することにしたが、それは宗麟の罠であり、その途上で自害を余儀なくされた。

 シナリオ1や6であれば、本作に登場していてもおかしくない人物である。実際に登場していれば、本作では謀叛を起こした人物の「謀略」が高いことから、やはり彼も「謀略」は高く、場合によっては、「戦闘」も、ある程度の評価が与えられそうである。
 
 
北畠具親

 ?〜1586。晴具の息子、具教の弟。具教が謀殺されると、北畠家の残党とともに蜂起するが、織田信雄によって鎮圧された。その後は毛利家の庇護を受け、「本能寺の変」が起こると、再び伊勢で挙兵したが、やはり信雄の前に敗れた。その後は伊勢に封じられた蒲生氏郷の客分となり、間もなく死去した。

 本作では、謀反を起こした武将の「謀略」が高くされる傾向があるため、彼もまた、ある程度は「謀略」が評価される可能性がある。しかし、やはり全体的な能力は低めに設定されるものと思われる。
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肝付兼演

 「きもつき・かねひろ」と読む。1498〜1552。大隅国加治木城城主。肝付兼続の曽祖父の弟の系譜に連なる。島津家に属するが、当時の島津家は分裂状態にあり、兼演も状況に応じて所属を変えた。しかし、1549年の「黒川崎の戦い」で島津貴久配下の伊集院忠倉らに敗れ、貴久に降伏した。
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近衛信尹

 1565〜1614。前久の息子。元服の際には、信長を加冠役とした。「唐入り」の際、朝鮮に渡航しようとしたことが後陽成天皇の勘気に触れ、薩摩に流刑となる。3年後に許され、京都に戻るが、この時に阿蘇惟賢が同行している。なお、この縁により、「関ヶ原の戦い」で取り残された島津軍の兵士を匿い、帰国できるように取り計らった。1605年に関白となる。
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杉谷善住坊

 ?〜1573。1570年に越前から退却する途中の信長を狙撃したが失敗する。その後は近江国高島郡に潜伏していたが、1572年に同地の領主となった磯野員昌に捕えられ、信長に引き渡された。信長は自分を暗殺しようとした善住坊を許さず、体を地面に埋めて首だけを露出させ、その首を鋸で切断するという「鋸引きの刑」に処した。

 本作に登場していれば 「戦闘」だけが突出したタイプになっていたと思われる。位置づけ的には「剣豪」に近いが、鉄砲の使い手を「剣豪」に分類するわけにもいかず(槍術の宝蔵院胤栄は「剣豪」扱いであるが)、本作的には位置づけの難しい武将と言える。
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武田信虎

 1494〜1574。武田家第18代当主。信玄、信繁、信廉、一条信龍らの父。甲斐を統一したが、板垣信方甘利虎奏らの支持を受けた息子のクーデタによって当主の地位を追われた。その後は駿河の今川家に身を寄せたが、今川家が信玄の侵攻にさらされると京に移った。信玄の死後は、信濃にいた信廉の庇護を受け、1574年に死去している。

 本作に登場していれば、「戦闘」は高く、「内政」は最悪であることは間違いないと思われる。『信長の野望』シリーズの一部のように、山城(二条城)で浪人をしていると、弱小勢力の救済措置として面白い存在になれたかもしれない。
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伊達小次郎

 1568〜1590。一説によると名は「政道」。伊達政宗の弟にあたり、葦名盛隆死後、空白化した葦名家の当主に推されたこともあったが実現せず、新当主は葦名盛重のものとなった。1590年、秀吉のもとに参陣する直前の政宗に殺されるが、その事情については謎が多い。事績はないに等しく、ゲームに登場していても、能力的に目立ったものは見られなかったと思われる。
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田村隆顕

 ?〜1574。清顕の父。伊達稙宗の娘を娶り、「天文の乱」では稙宗側についた。佐竹家と結び、葦名盛氏との抗争を繰り広げたが、必要によっては盛氏と組んで佐竹家と戦い、田村家を維持に努めた。
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津田信澄

 ?〜1582。織田信行の息子。後に磯野員昌の養子となる。1574年3月に蘭奢待切り取りの奉行を務め、その後は越前の一向一揆鎮圧、明智光秀の丹波侵攻に従軍した。1578年には、失脚した員昌の領土を引き継いでいる。

 1582年には四国侵攻のため織田信孝の指揮下に入ったが、「本能寺の変」が勃発すると、光秀の娘を娶っていたことから光秀との内通を疑われ、信孝らによって攻め滅ぼされた。仮に本作に登場していても、父と同じく平凡な能力にとどまっていたものと思われる。
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天海

 1536〜1603。南光坊天海。前半生は不明な部分が多いが、現在では葦名氏の一族とする説が有力なようである。天台宗の僧侶として各地で修業をおさめるが、1571年に信長が比叡山を焼き討ちすると、武田信玄、葦名盛氏らの招聘を受けて彼らの所領内の寺院の住職を歴任する。

 天海が家康に仕えたのは、以心崇伝とほぼ同時期の1600年代初期であるという。1614年には、崇伝らとともに方広寺の鐘号を糾弾するが、家康の死後は彼の神号を巡る崇伝との争いに勝利し、家康は天海の推す「権現」として祀られることになった。また、天海は、崇伝の制定した各諸法度によって罰せられた大名や高僧の赦免に奔走する一方、かなり早い段階から江戸市街および江戸城の設計に携わっていたと言われている。。

 こうしたことから、天海がゲームに登場していれば、ライバルというべき崇伝が「謀略」以外はパッとしないのに対し、天海は「謀略」だけでなく、「内政」や「外交」も高いという、完全に崇伝の上位互換的な設定になっていたものと思われる。
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豊臣秀保

 1579〜1595。豊臣秀次の弟。秀長の養子となるが早世した。これにより、秀長系の大和豊臣家は断絶した。浅井井頼は秀次に仕えた後、秀保の家臣となっているが、立て続けで主君が若死にしたことになる。本作に登場したとしても、あまり能力の高くない秀次と変わらない能力になっていたと思われる。
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北条氏綱

 1487〜1541。氏康の父。小田原北条氏の2代目。相模一国を掌握した父早雲の後を受け、領土を関東圏に拡大した。その途上で古川公方の足利晴氏に娘をとつがせた。没年が本作のシナリオ1であるため、登場できないことはなかった人物である。登場していれば、能力は全体的に高く設定されていたものと思われる。
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細川高国

 1484〜1531。細川政元の養子の1人。同じく養子である澄元の家督相続を容認するが、大内義興の上洛に際して彼に降り、澄元と争う。義興が本国に帰ると窮地に立たされたが、最終的に澄元の病死によって勝利を得る。

 当時の将軍は第11代義稙であったが、彼は澄元の後援を得ており、その死後も高国との対立の姿勢を崩さなかった。そのため、高国は浦上村宗の監視下に置かれていた足利義晴を擁立して第12代将軍としたが、澄元の遺児晴元と対立し、最終的に自害に追い込まれた。
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細川政元

 1466〜1507。世代的には細川晴元の祖父にあたるが、直接的な血縁関係はない。。「明応の政変」によって将軍義澄(彼の子が本作に登場する義晴である)を擁立、当時の将軍義稙と争い、近畿一帯を支配下に収めた。政元は修験道に傾倒して子供を作らず、代わりに3人の養子を迎えたが、彼らの対立は家臣たちの派閥争いに発展し、政元自身も、その一派の家臣たちに殺されている。
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松永長頼

 松永久秀の弟。兄とともに三好長慶に仕え、六角家との戦いや丹波攻略戦で活躍しており、赤井忠家の父家清を打ち破ってもいる。丹波の波多野晴通が長慶に降伏すると、長頼は丹波の支配を任され、以後は丹波衆を率いて畿内を転戦した。しかし、後に丹波衆は反旗を翻し、長頼は、その対応に追われた。1565年、長頼は赤井直正の籠る黒井城を攻撃したが、赤井直正に敗れて戦死している。

 本作の松永久秀は、三好家から独立した大名として存在している。そのため、彼が登場していれば、その配下に収まるのが妥当であると考えられるが、史実では兄と行動を共にする機会はあまりないため、彼は三好家の家臣のままでもおかしくはない。能力的には「戦闘」が高く、丹波衆の反乱を招いたことから、「内政」や「外交」は低めになると思われる。
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三好元長

 1501〜1532。三好長慶らの父。細川晴元の家臣として細川高国と戦う。晴元は足利義晴の兄弟にあたる義維を旗印としていたが、高国の死後は現将軍義晴を容認した。これに反対した元長は、晴元と対立するが、晴元側についた一向宗によって自害に追い込まれた。
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毛利元秋

 1552〜1585。毛利元就の五男。1569年には天野隆重とともに月山富田城で尼子残党の攻撃を撃退した。その後も隆重の補佐を受けて月山富田城の城代を努めるが、34歳で病死した。
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本山茂辰(もとやま・しげとき)

 1524〜?。土佐北部の豪族。本山城主。一条家および長宗我部家と対立し、土佐南部に領土を広げる。1560年からは長宗我部国親の攻撃を受け、5月には「長浜の戦い」に敗れて居城を包囲されるが、国親が病に倒れたことで長宗我部軍が撤収したため、茂辰も後方に退いた。

 その翌年の1561年からは、国親の跡を継いだ元親の攻撃の前に後退を続け、1563年には、それまでに獲得した領土を喪失して本拠地の本山城まで退いた。しかし、元親の追撃は止まず、1564年4月になると、茂辰は本山城を捨てて後退したが、間もなく病死したと言われる。その後、1568年に本山家は長宗我部家に従属し、本山家は滅亡した。

 ゲーム的に見ると、土佐南部に領土を拡張した実績から「戦闘」は高めでも良いと思われるが、しょせんは土佐一国のレベルなので、「B」は難しいところである。また、元親との戦いでは、謀略による切り崩しで多くの家臣の離反を招いているため、「謀略」は低くなるものと思われる。
 
結城義親

 1541〜1626。義顕の息子。白河結城氏13代当主。佐竹家に服従し、佐竹義重の次男を養子として家督を継がせるが、この養子が葦名盛重として葦名家を継ぐことになったため、白河結城氏の当主に復活する。

 盛重が「摺上原の戦い」で伊達家に敗れ、葦名家が滅亡すると、義親は伊達家に従属するが、後に小田原包囲中の秀吉のもとに参陣しなかったことが問題となり、改易された。本作に登場していれば、能力は平均以下で特に「外交」は低くされていたであろうと思われる。
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