| ●能力値 | 
          
          
            | 名前 | 
            朝倉景鏡 | 
            能力 | 
            戦闘 | 
            内政 | 
            外交 | 
            謀略 | 
            忠臣 | 
          
          
            | 読み | 
            あさくら・かげあきら | 
            能力値 | 
            C | 
            C | 
            B | 
            C | 
            ○ | 
          
          
            | 生没年 | 
            1517〜1581 | 
            軍師 | 
            ― | 
            ― | 
            ― | 
            ― | 
            顔 | 
          
          
            | 登場年 | 
            1533年 | 
            上昇 | 
            ― | 
            ― | 
            ― | 
            ― | 
            汎用 | 
          
          
            | 血族 | 
            朝倉 | 
            備考 | 
              | 
          
          
            | ●シナリオ  | 
          
          
            | シナリオ | 
            所属勢力 | 
            身分 | 
            居城 | 
            初期知行 | 
            兵種 | 
          
          
            | S1 | 
            朝倉家 | 
            宿老 | 
            一乗谷城 | 
            1.8万石 | 
            足軽 | 
          
          
            | S2 | 
            朝倉家 | 
            宿老 | 
            一乗谷城 | 
            2.0万石 | 
            足軽 | 
          
          
            | S3 | 
            朝倉家 | 
            宿老 | 
            一乗谷城 | 
            2.2万石 | 
            足軽 | 
          
          
            | S4 | 
            ― | 
            ― | 
            ― | 
            ― | 
            ― | 
          
          
            | S5 | 
            ― | 
            ― | 
            ― | 
            ― | 
            ― | 
          
          
            | S6 | 
            朝倉家 | 
            宿老 | 
            一乗谷城 | 
            1.5万石 | 
            足軽 | 
          
          
            | ●略歴  | 
          
          
            _ 
             ?〜1574。景高の息子で義景の従兄弟にあたる。越前国土橋城城主。1564年には加賀に侵攻し、一向一揆との戦いを指揮した。この時、景鏡と従兄弟の景 (かげみつ)が争い、敗れた景 が自害した。これにより、景 の父である景紀は激昂し、所領に籠ったという。 
             
             1566年、足利義昭が越前に落ち延びて来ると、景鏡は義景の名代として義昭を迎え、式部大輔に任官された。この時、景鏡と景紀は序列を争い、最後にはお互いに顔を合わせなくなったという。また、このころに景鏡は大野郡司となり、大野郡一帯を管理している。 
             
             1570年4月、信長が金ヶ崎城を包囲すると、景鏡は一軍を率いて援軍に駆け付けたが、本隊の義景隊がその途上で引き返したこともあり、救援を取りやめた。これについては、金ヶ崎城の守将が、景紀の息子の景恒であったことを無関係ではないように思われる。 
             
             その結果、金ヶ崎城は陥落したが、浅井長政の裏切りによって信長は越前から撤退した。景鏡は2万の兵で追撃を行ったが、秀吉らの奮闘によって追撃は阻まれ、信長は逃げ延びた。 
             
             5月、景鏡は長政からの要請で3千の兵を率いて彼に合流し、ともに美濃に侵攻した。しかし、すでに信長は美濃に戻っており、景鏡らは美濃の不破郡で焼き討ちを行ったが、信長は動じなかった。 
            _  | 
          
          
            | ●信長との戦いと朝倉家滅亡 | 
          
          
            _ 
             1572年5月、信長が小谷城を包囲すると、景鏡は5千の兵を率いて救援に向かったが、劣勢であったためか、後に義景の本隊1万5千と合流している。この朝倉軍は信長と対峙したものの、12月に信長が西進する信玄に対応するため、美濃に引き返すと撤収してしまった。 
             
             1573年7月、義景は長政救援のために動員をかけたが、景鏡は魚住景固らとともに参陣を拒否した。8月、景鏡は信長との戦いに敗れた義景を自領の大野郡に招き、宿舎として賢松寺を提供したが、20日には賢松寺を包囲して義景に自害を強いた。24日、景鏡は信長のもとに赴き、義景の首を差し出して所領を安堵された。 
             
             景鏡は氏を「土橋」に改め、信長からも一字を拝領して「土橋信鏡」と改名して信長に仕えた。1574年1月、景鏡と同じく朝倉家から織田家に鞍替えした富田長繁は、処遇に対する不満から一揆を扇動したが、制御しきれずに加賀の一向宗の越前侵攻を招いた。4月、七里頼周率いる一揆軍は大野郡に侵攻、この戦いの中で景鏡は戦死した。 
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            | ●ゲーム  | 
          
          
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             能力的には「外交」が高く、立場的には朝倉家の外交官といったところである。この評価は、義昭を出迎えたことに由来すると思われる。また、信長に降伏して本領を安堵されたことも加算点になるという印象を受けるが、義景を殺したことまで含めて考えれば、これは「謀略」の領域であると言える。 
             
             『信長の野望』では、「三国志でいうと、曹豹のようなつまらぬ奴である」などと言われてしまっているが、本作の景鏡の「忠臣属性」は「○」と高く、朝倉家に仕えている間はゲームシステム上「内応」にも応じない。そのうえ、一門衆として身分も高く、能力的にも「外交」に秀でているだけでなく、他の能力も低くはないことから、有用な部類に入ると言える。 
             
             個人的には、 最前線で幾度も信長と戦い、そのたびに義景の戦略眼のなさに振り回されてきたことを考えれば、彼の裏切りにも一理はあるように思われる。また、朝倉家と織田家だけにとどまらず、織田家と一向宗との間を往来して信長に殺された同族の景健、職務を放棄して逃走した景綱よりは、人としてましなのではないかとさえ感じられる。 
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