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●備考
タイトル部分のリンクは、リンク元に戻るためのリンクである。
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●祖父
この祖父の名も「久清」である。
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●プレイしたくなくなる低能力が魅力
『信長の野望 覇王伝事典』、10ページ、「赤松晴政」の項参照。
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●当主が務まるのが不思議なくらいの能力値
『信長の野望 天翔記事典』、10ページ、「赤松晴政」の項参照。
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●青景隆著が登場しない
青景隆著は大内家の家臣。陶晴賢に主君義隆や、その寵臣の相良武任に対する不信を抱かせ、謀反のきっかけを作った。彼が登場すると、その読み方から武将の50音のトップに彼が来ることが多く、『信長の野望 覇王伝事典』では、「記念すべき第一号武将がこいつとは……(8ページ)」などと言われてしまっている。
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●彼と遠山景行を同一人物であるとする説
Wikipediaによる。
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●浪人・地侍
「攻略本」、134ページ参照。
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●三国志でいうと、曹豹のようなつまらぬ奴である
『信長の野望 覇王伝事典』の15ページ、「朝倉景鏡」の項参照。
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●越前国織田城
余談であるが、尾張織田家の故郷であるらしい。
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●ただ、諸国へご書状を与え給うて、東西南北の味方を集め、それから後に上洛なさるべきでしょう
『日本の戦史 桶狭間・姉川の役』、300ページ参照。
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●戦国一ヤル気の無い男
『信長の野望 覇王伝武将FILE』、151ページ、「朝倉義景」の項参照。
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●大内義長と並んで情けない大名の筆頭格
『信長の野望 覇王伝事典』、16ページ、「朝倉義景」の項参照。
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●次の代のアレ
『信長の野望 天翔記事典』、13ページ、「朝倉義景」の項参照。
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●評価
義景に限らず、景鏡や景盛など、義昭と関係をもった朝倉一門衆の多くは「外交」が高くなっている。
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●われらの帰朝は治部少輔の欲せざるところであろう
『日本の戦史 関ヶ原の役』、50ページ参照。
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●「幸長」と書いて「よしなが」と読む
同系統の読みを持つ人物には、赤井幸家(あかい・よしいえ)がいる。
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●孝成
『日本の戦史 桶狭間・姉川の役』の288ページ参照。読みは「たかなり」か「たかしげ」のどちらかであると思われるが不明。
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●義弟
妹の夫にあたる。
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●第15代目の征夷大将軍
第14代将軍義栄は三好三人衆に擁立されたが、信長の上洛によって排除された。
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●父
実年齢的には、信長が4歳年上なだけである。
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●恐怖の文通将軍
『信長の野望 覇王伝事典』の19ページ、「足利義昭」の項参照。
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●ペンパルコレクター
『信長の野望 覇王伝部将FILE』の250ページ、「足利義昭」の項参照。
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●貧乏公方
Wikipediaによる。
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●最後の古河公方とかいう人。いつも浪人をしている
『信長の野望 覇王伝事典』の20ページ、「足利義氏」の項参照。
●最低の能力
一応、彼の下には農民一揆で誕生する独立勢力の指導者(全能力が「E」)がいる。ちなみに、能力が低いことに定評のある一条兼定の能力値は、「E」が2つに「D」が2つである。
●剣フェチ
『信長の野望 覇王伝部将FILE』の250ページ、「足利義昭」の項参照。
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●名前の安売り王
『信長の野望 将星録事典』の14ページ、「足利義輝」の項参照。この項では、彼から名前を授けられた朝倉「義」景、上杉謙信(長尾「輝」虎)の他、尼子晴久、今川義元、武田信玄などの名を挙げ、「衰勢にある将軍家にあやかっても、運が良くなるはずがない」と言っているが、晴久以下の3人は義晴から一字を受けた者たちであり、事実誤認のようである。
とは言え、義景が追い詰められて自害したこと、謙信が急死したことは確かであり、その他にも本作に登場する人物で彼の名を拝領した人物の多くがろくな死に方をしていないか、最後がどうなったのかすらわからない武将ばかりに見える(下表参照)のもまた事実である。
しかし、一方では、赤松「義」祐、小野寺景道(「輝」道)、島津「義」久、細川幽斎(「藤」孝)、益田「藤」兼、毛利「輝」元、最上「義」光など、平穏に生涯を終えた人物もいないわけではない。平穏に生涯を終えた人物もいないわけではない。やはり、非業の死に方の方が目立つというだけのような気がする。
| 字 |
名前 |
備考 |
| 義 |
尼子「義」久 |
・勢力滅亡後幽閉 |
| 相良「義」陽 |
・戦死 |
| 三好「義」興 |
・早世 |
| 三好「義」継 |
・部下に裏切られて自害 |
| 輝 |
江間「輝」盛 |
・戦死 |
| 大内「輝」弘 |
・戦死 |
| 太田垣「輝」延 |
・消息不明 |
| 伊達「輝」宗 |
・「粟之巣の変事」で死亡 |
| 藤 |
足利「藤」氏 |
・消息不明 |
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●有力武将に都合のいいときにかつぎ出され、必要がなくなると放り出されるという、足利幕府の権威の失墜をそのまま体現したような人
『信長の野望 天翔記事典』の14ページ、「足利義晴」の項参照。
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●二俣城
信玄の西征の際、勝頼が徳川軍から奪取した城である。
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●イメージに近い
主筋の大井貞隆は小笠原氏の傍流、諏訪頼重も本作では小笠原家臣として登場するため。
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●葦名盛興の娘
この時、実父の盛興はすでに死去しており、母は葦名盛隆と再婚していたため、その娘も彼の養女となっていた。
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●従弟甥
父の弟の孫にあたる。
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●後継者不在によるハマり
本作における惟将の没年は1583年、惟賢は1592年であるが、史実から惟光の元服年を算出すると1598年となる。つまり、惟将の死後、惟賢に後を継がせるまでは良いとしても、彼が1598年まで生きていてくれないと、後継者がいないためにゲームオーバーになってしまうのである。
もっとも、惟将存命中に適当な武将を「婚姻」で一門衆にしておけば、何の問題もなくゲームを続けることができる。なお、代替わりすると姫の数は「0」になるため、「婚姻」は、事実上惟将の時代限定の手段ということになる。ちなみに、CPUの場合、一門衆がいなくても武将さえいれば大名家は存続するため、まったくペナルティにはならない。
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●自らも姉小路氏を称した
ちなみに、この時に名を「嗣頼」に改名している。
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●序盤の基本戦略が紹介される
「攻略本」、111ページ参照。
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●姉小路氏を称する
もともと彼の名前は「自綱」であったが、この時に「頼綱」に改名している。
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●擁立
なお、大名家としての尼子家は滅亡したが、当主義久は健在であり、勝久が尼子家の当主になったというわけではない。
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●一字を譲り受けて
それまでの名前は「詮久」であったが、この時に「晴久」と名乗った。
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●交易ルートを利用
Wikipediaによる。
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●ああ、経久の威光、いまいずこ
『信長の野望 覇王伝事典』の28ページ、「尼子義久」の項参照。
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●今川配下だが、じゃまなだけ
『光栄ゲーム用語辞典』の45ページ、「天野景貫」の項参照。
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●能力は二流だが世渡りのうまさは一流だ
『信長の野望 覇王伝事典』の28ページ、「天野景貫」の項参照。
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●生城山天野氏
「ふきのさんあまのし」と読む。天野隆重とは別系統の安芸天野氏である。
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●領民を奴隷として国外に売り払ったという噂
Wikipedia
では、そういう計画があったというだけで実際にやっていたかどうかは不明であるが、彼のことを検索すると、実際にやっていたという話もあるため、現状では「噂」とした。ちなみに、これもWikipediaソースではあるが、同じキリシタン大名の大村純忠は、実際に日本人を奴隷として海外に売り払ったという話がある。これが純忠の行いと混同されているとも考えられる。
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●毒にも薬にもならないタイプ
『信長の野望 覇王伝事典』の33ページ、「安東舜季」の項参照。
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