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             ?〜1606。もともとは朝倉家家臣であったが、朝倉家滅亡後は信長、信長死後は秀吉に組した。「小田原城の戦い」で戦功があり、戦後は越前今庄2万石の領主として小早川秀秋、堀尾吉晴らの与力となった。 
             
             「関ヶ原の戦い」では、西軍の大谷吉継に属して小早川秀秋に対する備えにまわされたが、秀秋が東軍に寝返り、東軍に内通していた脇坂安治も秀秋の動きに呼応すると、直保も安治に連座して吉継の陣営を攻撃した。 
             
             戦後、直保は家康に内応の意を示していなかったこともあり、領土を没収された。その後は前田家に仕官しているが、1606年に越中大門川の氾濫を検分した際、大門川を渡河中に落馬、そのまま溺死した。 
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