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             1553〜1578。尼子誠久の息子。1554年、誠久ら「「新宮党」が晴久に粛清された際、勝久は家臣に救いだされ、後に京都で出家した。尼子家が毛利家に滅ぼさた2年後の1568年、勝久は山中鹿之助らに擁立されて彼らの盟主となり、翌年には尼子残党の支持を受けて出雲の新山城に入城した。 
             
             このころ、毛利元就は北九州で大友宗麟と戦っていたため、勝久らの領土回復は順調に進んだ。しかし、かつて尼子家の本拠地であった月山富田城の攻略がもたつき、戦いが長期化するうちに毛利元就自らの率いる救援軍が到着、「布部山の戦い」に敗れて勢いを失い、敗戦を重ねて京都に潜伏した。 
             
             その後、信長の傘下に入った勝久らは秀吉の中国遠征軍に従い、1577年には、秀吉が攻略した播磨の上月城(宇喜多家領)の守備を任された。しかし、その翌年には、宇喜多・毛利の連合軍に上月城を囲まれたうえ、秀吉は反旗を翻した三木城の攻略に向かったため、上月城は孤立した。 
             
             勝久は、上月城が開城した際に自害した。『陰徳太平記』によると、この時に勝久は、僧侶であった自分を尼子の盟主として盛り立ててくれた鹿之助らに感謝の意を示し、彼らの無事を願ったという。 
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