戦国夢幻

 

   戦国夢幻 武将 あ  


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●能力値
名前 足利義輝 能力 戦闘 内政 外交 謀略 忠臣
読み あしかが・よしてる 能力値
生没年 1536〜1600 軍師
登場年 1552年 上昇 固有
血族 将軍家 備考  
●シナリオ 
シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵種
S1 11年後 宿老 二条城 0.0万石 足軽
S2 将軍家 主君 二条城 10万石 足軽
S3
S4
S5
S6 足利家 剣豪 二条城 0.1万石 足軽
●略歴 
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 1536〜1565。義晴の息子。義昭の兄。当時、父と管領の細川晴元は争いを繰り返していたため、義輝も何度か京都を追われて近江に逃れている。1546年、義輝は義晴から征夷大将軍の地位を譲られ、室町幕府の第13代将軍となった。その就任式は逃亡先の近江で行われ、同時に元服して「義藤」を名乗った。また、その直後より塚原卜伝から剣術を学んだと言われる。

 将軍に就任したとはいえ、実権は義晴が握っており、彼と晴元との対立構造も変わらなかった。しかし、1548年には両者の間に講和が結ばれ、義輝も京都に戻った。さらに晴元も義輝の地位を認め、その地位は万石となったかに見えたが、1549年に晴元は家臣の三好長慶に敗れ、義輝らも彼とともに近江に逃れた。義晴は、その翌年の1550年に死去している。

 義輝は晴元と結び、長慶に戦いを挑んだが、1552年に一度講和を結び、京都に戻った。しかし、翌年には再び晴元と組んで長慶と戦い、敗れて近江に逃れた。近江での生活は5年におよび、彼が名を「義輝」に改めるのも、このころである。1558年、義輝は六角義賢と組んで長慶と対抗したが、義賢の勧めで長慶と講和し、京都に戻った。

 義輝は長慶を御相伴衆に加え、修理大夫に任じた。長慶は幕府内においても強大な権力を維持し続けたが、義輝不在の5年の間、長慶は義輝の許可を得ずに独断で行動し、名実ともに室町幕府は機能を停止していたことを思えば、彼の権力が幕府の中に取り込まれた分だけ事態は改善したと言える。
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●征夷大将軍として
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 義輝は征夷大将軍として各地の紛争調停に努める一方、諸大名には自分の名前を与えて存在感をアピールした。その一環として、1559年には信長の拝謁を許している。1561年には晴元の処遇を巡って長慶と義賢が対立、義賢が京都に攻め込んだため、義輝は長慶と組んで義賢と戦い、翌年6月に義賢と講和した。

 戦後、義輝は義賢に組した政所の伊勢貞孝を罷免し、彼が挙兵すると、三好家の軍事力を借りて撃退した。伊勢貞孝の伊勢氏は、南北朝時代から政所の執事を世襲しており、義輝の時代に至るまで、幕府に強い影響力を与えていた。これを排除し、義理の従兄弟にあたる摂津晴門に政所を任せたことにより、義輝は室町幕府の政所の機能を復旧させたことになる。

 1564年に長慶が死ぬと、義輝の親政を阻む者はいなくなったかに見えた。しかし、三好家の中枢を担う松永久秀と三好三人衆は、権力を握るために義輝の排除を目論んだ。義輝も彼らを警戒して二条御所の改修を行っていたが、久秀らは改修中の1565年6月17日に御所を襲撃した。

 義輝は、足利家代々の資産である数多の名刀を床に突き刺し、斬りすぎて刀の切れ味が悪くなると、刀を取り換えて戦いを続けた。しかし、最期には畳を盾にした敵兵に押し潰され、槍で滅多刺しにされたとも、遠巻きに火縄銃の一斉掃射によって撃ち殺されたとも言われる壮絶な最期を遂げた。

 この「永禄の変」で義輝の母も殺され、弟の義昭も捕えられて幽閉された。久秀らは、義輝の従弟にあたる義栄を第14代将軍に据えたが、実際に彼が征夷大将軍となったのは1568年のことであり、室町幕府は将軍不在の時期が3年間あったことになる。ちなみに、1568年は信長が義昭を奉じて上洛した年でもあり、義栄は京都に一度も入ることなく、この年に病で死去している。
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●ゲーム 
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 現代では「剣豪将軍」の名で親しまれているが、一方では「剣フェチ」、「名前の安売り王」などとも呼ばれる。本作での主な登場シナリオは2と6。シナリオ1とシナリオ2では通常の武将と同じ扱いであるが、シナリオ6のみ「剣豪」に設定されている。

 能力的には「戦闘」だけでなく、紛争調停の功績が評価されたためか、「外交」も高い。攻め滅ぼした敵勢力から出た浪人をそのまま「登用」することができ、能力の傾向は攻勢に適している。

 シナリオ6では「剣豪」の適正が足を引っ張り、「外交」の高さを活かすことができない。しかし、「主君」の義昭を無謀な「工作」などでわざと殺してしまい、義輝を「主君」にすれば、「外交」の高さが生かせるだけでなく、「戦闘」の高い義輝に大軍を任せることができる。「外交」だけが高い義昭よりは間違いなく役に立つと思われる。
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●能力値
名前 足利義晴 能力 戦闘 内政 外交 謀略 忠臣
読み あしかが・よしはる 能力値
生没年 1511〜1550 軍師
登場年 1527年 上昇 汎用
血族 将軍家 備考  
●シナリオ 
シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵種
S1 将軍家 主君 二条城 4.4万石 足軽
S2
S3
S4
S5
S6 足利家 宿老 二条城 4.3万石 足軽
●略歴 
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 1511〜1550。義輝義昭の父。父の義澄は室町幕府の第11代将軍であり、第10代将軍の義稙を追放した細川政元に擁立されていた。しかし、義稙が大内義興の庇護のもとに上洛すると、義澄は近江に逃れた。義晴は、義澄が近江に滞在している間に産まれた。

 1513年に義澄は病死、その後の「船岡山の戦い」に義稙軍が勝利したことから、両陣営は講和を結び、義稙は将軍に返り咲いた。義晴は、義澄に組した赤松義村に引き取られ、浦上村宗との戦いにおいて名目上の指導者に据えられたが、義村は戦いに敗れ、義晴も村宗の監視下に置かれた。

 一方、京都では義稙と管領の細川高国の間で争いが起こり、義稙は京都を追われたが、高国との対立の姿勢を崩さなかった。そのため、義晴は高国から将軍に推戴され、1521年7月6日に上洛した。その後、12月24日に元服して「義晴」を名乗り、翌日には室町幕府の第12代将軍への就任が認められた。
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●細川晴元と三好長慶
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 1526年には高国と晴元の間で争いが起こり、義晴は高国らとともに近江に逃れた。高国の勢力の滅亡後、義晴の将軍位は晴元によって保障されたが、それがもとで晴元と家臣の三好元長が対立した。その間、義晴は近江を転々としていたが、。1534年には六角氏の仲介により、京都に戻った。

 1546年、義晴は晴元排斥を掲げて挙兵したが、敗れて近江に逃れた。その年のうちに息子の義輝を元服させて征夷大将軍の地位を譲ったが、彼の後見人として、権力は保持していた。翌年、義晴は晴元と講和して京都に戻るが、1549年には晴元と三好長慶が対立、義晴は晴元を支持したが、晴元が敗れたことから近江に逃れた。

 義晴には京都を奪回する意図があったが、すでに病を患っており、翌年の1550年に死去した。その遺志を引き継いだ義輝は長慶との戦いを続けたが、1552年には講和して京都に戻ることとなった。
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●ゲーム 
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 『信長の野望』シリーズによると、「有力武将に都合のいいときにかつぎ出され、必要がなくなると放り出されるという、足利幕府の権威の失墜をそのまま体現したような人」。最後まで一貫して反晴元を貫いていれば、少なくとも京都で死ねた様な気がする。

 主な登場シナリオは1と6。能力は全体的に低く、見るべき要素はない。シナリオ1では二条城で将軍家の「主君」となっているが、この1541年という時代は、本来ならば近江に逃れている時期である。

 また、このシナリオでは晴元が将軍家の家臣扱いであるが、この時代の義晴と晴元は対立しており、晴元は長慶(本シナリオの時点で三好家当主として独立している)らを従えていてもおかしくない状況である。ちなみに、このシナリオの将軍家は、非常に滅ぼされやすい傾向にある
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●能力値
名前 鯵坂長実 能力 戦闘 内政 外交 謀略 忠臣
読み あじさか・ながざね 能力値
生没年 1551〜1615 軍師
登場年 1567年 上昇 汎用
血族 備考  
●シナリオ 
シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵種
S1 26年後 部将 0.0万石
S2 7年後 部将 春日山城 0.0万石 騎馬
S3 上杉家 部将 春日山城 0.3万石 騎馬
S4 上杉家 部将 春日山城 0.6万石 騎馬
S5 上杉家 部将 会津若松城 0.8万石 足軽
S6 上杉家 部将 春日山城 0.4万石 騎馬
●略歴 
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 上杉家の家臣。越中国新庄城の城主となり、1572年には謙信の指揮下で越中の一向一揆を鎮圧した。1576年には能登侵攻に従軍、能登攻略後は「手取川の戦い」に従軍し、織田軍を撃破した。その後、長実は七尾城の城代となり、「御館の乱」では上杉景勝に味方した。しかし、この内乱によって能登における上杉家の支配力が低下したことから、長実は能登を追われた。
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●ゲーム 
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 「戦闘」は高いが、身分は一貫して「部将」であり、やや中途半端な印象がある。基本的にはデフォルトで「騎馬」に編成されているが、シナリオ5では「足軽」を率いている点に注意したい。
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●能力値
名前 蘆田信蕃 能力 戦闘 内政 外交 謀略 忠臣
読み あしだ・のぶしげ 能力値
生没年 1544〜1608 軍師
登場年 1560年 上昇 汎用
血族 蘆田? 備考  
●シナリオ 
シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵科
S1 16年後 地侍 0.0万石
S2 武田家 組頭 躑躅ヶ崎館 0.1万石 足軽
S3
S4
S5
S6 村上家 組頭 砥石城 0.6万石 足軽
●略歴 
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 1548〜1583。蘆田信守の息子。父とともに信玄に仕える。勝頼の代には遠江の二俣城を守り、1573年6月には徳川軍の攻撃を退けている。しかし、「長篠の戦い」で武田軍が大打撃を受けると、徳川軍は1575年6月より再び二俣城に侵攻した。籠城中に父が死去する中、信蕃は半年の間攻撃を耐えしのぎ、自身と城兵の命の保証を条件として開城に応じた。

 その後、信蕃は駿河の田中城の守りについたが、1582年の信長による甲斐侵攻に乗じた家康の攻撃を受けた。信蕃は勝頼が自害するまで田中城を守りぬき、家康に降った穴山梅雪の勧告を受けて城を明け渡すと、蘆田氏の本拠地となっていた信濃の春日城に戻った

 「天正壬午の乱」における信蕃は家康に同調し、彼の命を受けて佐久郡に向かった。ここで「神流川の戦い」に敗れた滝川一益から小諸城を譲り受けるが、混乱に乗じた北条軍の攻撃を受けて後退、北条軍の追撃を前にして春日城をも放棄し、7月より天然の要害と言える三澤小屋に籠った。

 信蕃は、地の利を生かした抗戦を続けつつ家康からの援軍と共闘を行い、9月には当時北条方であった真田昌幸を味方に付けた。昌幸の助力を得た信蕃は、春日城を奪還すると、攻勢に転じて小諸城まで攻め寄せた。その後、まもなく徳川家と北条家の間に講和が成立し、徳川家は信濃、北条家は上野に攻め込むが、お互いの領土に干渉しないことを約束した。

 信蕃は、再び佐久郡の攻略に乗り出し、孤立した親北条派の諸豪族を屈服させていったが、1583年2月の岩尾城攻めの際、陣頭指揮中に敵の射撃を受けて戦死した。死後、家督は息子の康国が継承したが、彼も1590年に北条家との戦いで戦死、その弟の康勝が家督を引き継ぎ、3万石を領有したものの、後に改易されて松平秀康の家臣となっている。
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●ゲーム 
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 主な登場シナリオは2と6。シナリオ3と4では「依田信蕃」として登場するが、能力と顔グラフィックが異なるため、別人として設定されているものと思われる。史実では、家康の信濃征服の立役者と言える人物であるが、ゲーム中の評価は今一つである。一応「外交」は高いが、どのシナリオでも身分が低いため、、能力を生かすには、まず身分を上げる必要がある。
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●能力値
名前 蘆田信守 能力 戦闘 内政 外交 謀略 忠臣
読み あしだ・のぶもり 能力値
生没年 1524〜1575 軍師
登場年 1540年 上昇 汎用
血族 蘆田? 備考  
●シナリオ 
シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵科
S1 村上家 部将 小諸城 1.0万石 足軽
S2 武田家 部将 小諸城 0.5万石 足軽
S3
S4
S5
S6 村上家 部将 砥石城 0.6万石 足軽
●略歴 
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 ?〜1575。信濃蘆田城城主。蘆田信蕃の父。信濃の国人領主として大井貞隆に従う。1541年、武田信虎、諏訪頼重、村上義清らは海野棟綱を信濃から追い、棟綱は上野の上杉憲政の庇護を求めた。このことから、憲政は信濃に兵を出し、その攻撃を受けた信守は、先んじて憲政と講和していた頼重に降伏した。

 頼重の死後、信守は再び貞隆に従属したが、1543年に貞隆が信玄の攻撃を受けると信玄に内応し、以降は武田家に仕えた。1572年、西進を開始した信玄が遠江の二俣城を落とすと、信守は信蕃とともに二俣城を守り、1573年6月には徳川軍の攻撃を退けている。しかし、1575年6月に再度の攻撃を受け、この籠城戦のさなかに信守は死去した。
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●ゲーム 
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 登場シナリオは1、2、6。シナリオ1と6では村上家に仕えているが、史実の経歴からすると、小笠原家の方がイメージに近いと思われる。また、シナリオ3では「依田信守」として登場するが、顔グラフィックは異なっており、別人として扱われているようである。

 能力的には平均的で見るべきところはないが、人員の少ない村上家では存在自体が貴重である。一方、人材が豊富な武田家では、早々に二線級の内政要員として埋没していくと思われる。なお、信蕃とは一門衆の関係にあり、シナリオ1の16年後には、彼のもとで信蕃が元服すると思われるが、未確認である。
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●能力値
名前 葦名盛氏 能力 戦闘 内政 外交 謀略 忠臣
読み あしな・もりうじ 能力値
生没年 1521〜1580 軍師
登場年 1537年 上昇 固有
血族 葦名 備考  
●シナリオ 
シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵科
S1 葦名家 主君 黒川城 3.5万石 足軽
S2 葦名家 主君 黒川城 2.3万石 足軽
S3 葦名家 主君 黒川城 2.6万石 足軽
S4
S5
S6 葦名家 主君 会津若松城 5.0万石 足軽
●略歴 
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 1521〜1580。葦名家第16代当主。会津黒川城城主。1537年より伊達稙宗の娘を娶り、同じく稙宗の娘を迎えた田村隆顕とも手を組んだ。また、領内でも猪苗代氏ら諸豪族を従え、葦名家の権勢を確立した。伊達家の「天文の乱」に対しては、婚姻関係から稙宗側につくが、隆顕との対立から晴宗側に寝返り、晴宗の勝利に一役買った。

 「天文の乱」終結後の1550年以降も、盛氏は隆顕との戦いを続けた。隆顕は佐竹家と手を組んでいたため、盛氏は武田家、北条家などと手を組むことで佐竹家に対抗した。1561年、盛氏は家督を嫡男の盛興に譲って隠居したが、実権は握ったままであった。

 1563年から1566年の間、盛氏は二階堂盛義と戦い、その勢力を傘下に収めた。1568年に武田家が駿河に侵攻すると、盛氏は武田家との同盟に伴い、上杉家を牽制する役割を担った。また、この年に岩崎城が完成すると、盛氏は岩崎城に移り、黒川城を盛興に任せた。1572年、田村家と佐竹家が対立すると、盛氏は隆顕と結んで佐竹家と戦うが、2年後には講和し、再び田村家との戦いを続けた。

 1575年、盛興は子供を残さないまま死去したため、盛氏は二階堂盛義から人質として送られていた盛隆を娘婿として葦名家の家督を継がせ、自らは執政として彼を補佐した。

 盛氏は積極的な領土の拡張に努め、葦名家の全盛期を築く一方、内政面では、流通面の強化や徳政令の発令などを行っている。特に徳政令については1560年から1576年までの間に6度行っているが、これは相次ぐ戦闘によって疲弊した家臣団の救済という意味合いが強く、その負担は民衆にのしかかったという。
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●ゲーム 
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 シナリオ1では、父の盛舜が健在であるにもかかわらず「主君」である。これは、盛舜が隠居したからということで納得もできるが、盛氏本人が隠居しているシナリオ3でも、やはり「主君」の地位にある。

 能力的には「謀略」がかろうじて「B」である他は見るべきところがない。徳政令の乱発を考慮すると「内政」は低くても仕方のないところであるが、「戦闘」や特に「外交」は高くてしかるべき人物であると思われる。

 とは言え、人材の貧弱な葦名家では、彼の「謀略」の高さを生かした「不穏」工作が領土拡張の切札となる。葦名家の周囲には北の上杉家、南西の宇都宮家、南の佐竹家、北の伊達家などがいるが、「攻略本」の80ページにもある通り、伊達家を狙って北に領土を伸ばしていくのが良いと思われる。

 しかし、シナリオ6では相馬一族に独立されているうえ、政宗が「主君」の伊達家に「不穏」を仕掛けるのは自殺行為である。相馬家を滅ぼしたのちは、いっそのこと、伊達家と同盟を結び、伊達家をまたいで北方の小勢力を併合していくという手段もないわけではない。

 なお、一部の資料には、彼が結城家と婚姻関係にあったことから、佐竹家との戦いで共同戦線を張ったとする記述がある。この記述自体は間違いではないが、ここでいう「結城家」とは下総の結城家ではなく、その分家筋の白河の結城家である。本作では、義綱と孫の義顕が佐竹家の家臣として登場しており、義顕の母が盛氏の娘にあたるが、義顕の父の晴綱は未登場である。
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●能力値
名前 葦名盛興 能力 戦闘 内政 外交 謀略 忠臣
読み あしな・もりおき 能力値
生没年 1547〜1575 軍師
登場年 1563年 上昇 汎用
血族 葦名 備考  
●シナリオ 
シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵科
S1 22年後 宿老 0.0万石
S2 3年後 宿老 0.0万石
S3 葦名家 宿老 黒川城 1.8万石 足軽
S4
S5
S6 葦名家 宿老 会津若松城 2.7万石 足軽
●略歴 
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 1547〜1575。葦名盛氏の嫡男。1561年の父の隠居に伴い、葦名家の第17代当主となるが、実権は父に握られたままであった。盛興は伊達輝宗の娘を娶り、1563年から1566年における二階堂盛義との戦いでは、二階堂方の横田城を攻略した。1568年に岩崎城が完成すると、盛氏は岩崎城に移り、盛興は黒川城を任された。

 その後、盛興は父とともに佐竹家と抗争を繰り広げたが、1575年に急死した。死因は酒の飲みすぎであったという。盛興には男児がいなかったため、葦名氏の嫡流は彼の代で途絶えた。盛氏は二階堂盛義から人質として預かっていた盛隆に盛興の未亡人を嫁がせ、娘婿として葦名家を継がせた。ちなみに、盛隆の娘は盛重に嫁ぎ、彼が葦名家の当主となる名分を作り出すことになった。
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●ゲーム 
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 シナリオ3では名目的とはいえ「主君」の地位にあるはずであるが、ゲームでは盛氏の配下となっている。もっとも、このシナリオの盛興は寿命が近いため、ゲームバランス的には妥当な措置であるとは言える。能力的は平均的で見るべきところはないが、身分は高いため、それを生かした使い方をするべきである。
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●能力値
名前 葦名盛重 能力 戦闘 内政 外交 謀略 忠臣
読み あしな・もりしげ 能力値
生没年 1575〜1631 軍師
登場年 1591年 上昇 汎用
血族 葦名 備考  
●シナリオ 
シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵科
S1
S2 31年後 宿老 0.0万石
S3 20年後 宿老 0.0万石
S4 9年後 宿老 0.0万石
S5 佐竹家 与力 水戸城 0.4万石 足軽
S6
●略歴 
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 1576〜1631。佐竹義重の次男。義宣の弟。1583年より結城義親の養子となる。1587年、幼少の当主の死により、当主も後継ぎも不在となった葦名家では、盛重と伊達小次郎のいずれかを当主として迎えようとする動きがあった。 盛重は金上盛備の推進によって葦名盛興の娘を娶り、葦名家の第20代当主となったが、盛重派による小次郎派の排斥がはじまり、家中は分裂状態に陥った。

 1589年、伊達政宗は葦名領に侵攻すると、盛重は自ら兵を率いて彼を迎え撃った。6月5日の「摺上原の戦い」において、盛重は風上に立って強風を味方とし、緒戦を有利に展開するが、葦名方の諸将は傍観を決め込むものが多く、数的劣勢を強いられた。そのうえ風向きが変わって伊達軍が攻勢に出ると、葦名軍は支えきれずに撤退、盛重は実家に落ち延び、葦名家は滅亡した。

 その後、盛重は秀吉から常陸に所領を与えられたが、「豊家の変」では兄の義宣とともに西軍に加担したため、戦後に領土を没収された。義宣が秋田に転封されると盛重も彼に従い、秋田で角舘1万6000石の所領を得た。
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●ゲーム 
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 シナリオは5では佐竹家の家臣として登場するが、義重との血縁関係はない。「攻略本」の記述を参考にすると、未確認ではあるが葦名氏の血縁者として成人するものと思われる。能力的には全体的に低めで見るべきものはない。基本的には後方の内政に従事することになるが、シナリオ5ならば、そこそこの「戦闘」を生かして「大筒」を任せるという手もある。
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●能力値
名前 葦名盛隆 能力 戦闘 内政 外交 謀略 忠臣
読み あしな・もりたか 能力値
生没年 1561〜1584 軍師
登場年 1577年 上昇 汎用
血族 葦名 備考  
●シナリオ 
シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵科
S1 36年後 宿老 0.0万石
S2 17年後 宿老 0.0万石
S3 7年後 宿老 0.0万石
S4 葦名家 主君 黒川城 5.0万石 足軽
S5
S6 葦名家 宿老 会津若松城 2.7万石 足軽
●略歴 
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 1561〜1584。二階堂義盛の息子。1566年に義盛が葦名盛氏に服従した際、人質として差し出される。1575年に盛氏の息子の盛興が早世すると、彼の未亡人を娶って盛氏の娘婿となり、葦名家の第18代当主となる。

 盛氏死後の1581年、盛隆は金上盛備を信長の元に遣わし、名馬などを献上して三浦介に叙任された。1584年、盛隆が羽黒山東光寺に参拝した際、松本行輔らが反乱を起こして黒川城を占拠したが、盛隆は直ちに行輔を討ち、反乱を鎮圧することに成功した。

 しかし、その後まもなく盛隆は家臣によって殺された。一説には、男色の痴情のもつれとする説もある。その後は息子の亀王丸が1歳で後を継いだが、彼もまた3歳で死去したため、葦名家は佐竹家から盛重を迎え入れることになる。
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●ゲーム 
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 本作では、二階堂義盛の息子ではなく、葦名家の一門衆に組み込まれている。主な登場シナリオは4と6であるが、シナリオ4では寿命が近い。能力的には平均的であるが、人材に乏しい葦名家では、身分の高さを生かした能力補正によって活躍の場は増えることになる。
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●能力値
名前 阿蘇惟賢 能力 戦闘 内政 外交 謀略 忠臣
読み あそ・これかた 能力値
生没年 1528〜1592 軍師
登場年 1544年 上昇 汎用
血族 阿蘇 備考  
●シナリオ 
シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵科
S1 3年後 宿老 0.0万石 足軽
S2 阿蘇家 宿老 岡城 2.6万石 足軽
S3 大友家 組頭 岡城 0.6万石 足軽
S4 阿蘇家 宿老 岡城 2.9万石 足軽
S5
S6 阿蘇家 宿老 岡城 2.0万石 足軽
●略歴 
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 生没年不詳。阿蘇惟将の従弟甥にあたり、惟将の家系とは阿蘇神社の大宮司職を巡って対立した。惟賢は父の惟前に従って島津家の傘下に入り、1585年には阿蘇家を攻撃しているが、1590年には起請文を阿蘇惟光に差出し、服従を誓った。

 その後、惟賢は出家して「玄与斎」を名乗り、文学研究に余生を費やした。また、薩摩に流刑となっていた近衛信尹の刑期が終わり、1596年に京都に戻れるようになった際には、彼に随行して京都に赴いている。
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●ゲーム 
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 経歴を見ると島津家家臣がふさわしいように思えるが、本作では基本的に阿蘇家家臣として登場する。ちなみに、シナリオ3では阿蘇家そのものが大友家の傘下に入っているため、彼も大友家家臣である。

 「内政」が「B」の「宿老」という非常に優遇された立場にあるが、現状では理由は不明である。阿蘇家は知行も少ないため、「登用」した身分の低い武将を、彼の「内政」を生かした「治水」で昇進させたい。ちなみに、ゲーム上の没年は1592年になっているが、実際には1596年の時点で京都に赴いており、史実よりもだいぶ寿命が短く設定されているようである。
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