| ●能力値 |
| 名前 |
足利義昭 |
能力 |
戦闘 |
内政 |
外交 |
謀略 |
忠臣 |
| 読み |
あしかが・よしあき |
能力値 |
E |
E |
S |
C |
△ |
| 生没年 |
1537〜1597 |
軍師 |
― |
― |
― |
― |
顔 |
| 登場年 |
1553年 |
上昇 |
― |
― |
― |
― |
固有 |
| 血族 |
将軍家 |
備考 |
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| ●シナリオ |
| シナリオ |
所属勢力 |
身分 |
居城 |
初期知行 |
兵種 |
| S1 |
12年後 |
宿老 |
? |
0.0万石 |
? |
| S2 |
将軍家 |
宿老 |
二条城 |
3.0万石 |
足軽 |
| S3 |
将軍家 |
主君 |
多聞山城 |
14万石 |
足軽 |
| S4 |
毛利家 |
与力 |
三原城 |
0.7万石 |
足軽 |
| S5 |
― |
― |
― |
― |
― |
| S6 |
足利家 |
主君 |
二条城 |
6.1万石 |
足軽 |
| ●略歴 |
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1537〜1597。義晴の息子。義輝の弟。幼くして仏門に入ったが、1565年5月の「永禄の変」で兄が殺されると、義昭もまた松永久秀、三好三人衆らに捕えられ、興福寺で幽閉生活を送ることになった。
2ヶ月後、細川幽斎、和田惟政、三渕藤英らの幕臣に救い出された義昭は、近江の惟政の屋敷に匿われ、ここで足利将軍家当主となることを宣言した。さらに11月21日より義昭は近江の矢島に移ると、1566年中に還俗して「義秋」を名乗り、従五位下左馬頭に叙任された。
しかし、矢島領主の主君にあたる六角義賢が三好三人衆と内通しているという情報を得たことから、義昭らは北上して若狭武田家の庇護を求めた。当時の若狭武田家の当主である義統は義昭の義弟にあたったが、若狭武田家は内乱によって疲弊しており、援助を求めることはできなかった。
義昭はさらに北に向かい、越前の朝倉義景を頼った。義景は一族の景鏡に義昭を出迎えさせたため、義昭は景鏡を正五位下の式部大輔に叙任した。1568年4月、義昭は義景を加冠役として元服式を行い、名を「義昭」と改めた。彼が「義昭」と名乗るのは、正式にはここからである。
義昭は義景に上洛を要請したが、義景は越前を動こうとはせず、むしろ美濃の信長が密使を通じて積極的な支援を約束してきた。6月25日に息子の阿君丸が死去すると、義景は、ますます無気力となったため、義昭は美濃に移ることにした。この間の交渉は、明智光秀が担当したと言われている。
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| ●征夷大将軍 |
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義昭を迎え入れた信長は9月より上洛を開始、行く手を阻む六角義賢を排除し、その月のうちに京都に入った。そして10月18日に義昭は室町幕府の第15代目の征夷大将軍に就任した。また、この時に義昭は従四位下に昇進、参議、左近衛権中将を叙任されている。10月26日、信長はいったん美濃に戻ったが、義昭の信長に対する感謝の念も強く、彼を「父」とまで呼んだ。
義昭は幕府を開き、全国の諸大名と書簡を通じて積極的に交流を深めた。しかし、1569年1月5日、義昭の周囲が手薄になった隙をついて、三好三人衆らは義昭が宿舎としていた本圀寺を襲撃した。この襲撃は駆け付けた信長軍によって退けられたが、この一件以降、信長は二条城を築いて義昭の本拠地とした。
「本圀寺の変」直後の1月14日、義昭は信長から「殿中御掟」9条を課され、その行動を制限された。「天下布武」を宣言した信長としては、義昭の独自の行動は容認しがたかったようである。「殿中御掟」は2日後に7条、1570年1月23日に5条が追加されたが、その大本は、義昭の決定には必ず信長を介する必要があるというものであった。
さらに、1570年4月よりはじまった信長の越前侵攻は、浅井家の裏切り、「姉川の戦い」を経て三好三人衆、本願寺などを巻き込んだ畿内の大乱に発展した。12月、信長は浅井長政と朝倉義景の連合軍を比叡山に追い詰めたが、比叡山は彼らの引き渡しを拒み、戦線は膠着した。義昭は両勢力を仲介し、正親町天皇の叡旨を得て両者を講和させた。
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| ●信長包囲網とその崩壊 |
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1571年より義昭は武田、本願寺、毛利などとも連絡を取り、信長に対する包囲網を形成した。この時点での義昭と信長の関係は、まだ決定的な決裂を見せていなかったが、信長も義昭の動き自体は承知しており、1572年10月には「十七条の意見書」を提出して義昭を弾劾した。これによって2人の対立は決定的なものとなり、翌年2月になると、義昭は近江で信長に対して挙兵した。
この一件を美濃の信長に知らせたのは、義昭を見限った幽斎であった。攻勢に出た信長に対し、義昭は仇敵の久秀や三好義継らと結び、4月には一度信長と講和したが、本願寺、毛利らの後援を得られると再び挙兵した。
これに対する信長の対応は早く、7月3日より攻勢に出ると、10日には義昭方の三渕藤英が守る二条城を攻略、16日には義昭の籠る槇島城の攻撃に取り掛かった。18日より信長の総攻撃がはじまると、義昭は降伏し、息子の義尋を人質として差し出した。義昭は信長によって京から追放され、三好義継の若江城を経て堺に移った。
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| ●その後の義昭 |
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義昭は、羽柴秀吉や朝山日乗から帰京の説得を受けたが、応じずに紀伊、備後を転々とした後、備後に鞆幕府を開いた。この時点においても義昭は征夷大将軍であり、幕府を開く権限を失っていなかったためである。義昭は再び諸国の大名に上洛の支援を要請したが、これに承諾する者はいても実際に彼を迎える者はなかった。
後に義昭は津之郷に移り、九州に進撃中の秀吉と対面した。九州の島津義久に対しては、秀吉に下るように書簡を送ったらしい。秀吉が九州を征服すると、義昭は京都に戻り、征夷大将軍を辞して出家した。
これが1588年のことであり、この時をもって、名実ともに室町幕府は消滅した。その後、義昭は秀吉から1万石を与えられ、「文禄の役」では肥前の本陣に集っている。晩年は秀吉の御伽衆となり、1597年に死去した。
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| ●ゲーム |
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史実では「貧乏公方」、『信長の野望』シリーズでは、「恐怖の文通将軍」、「ペンパルコレクター」などと呼ばれる。本作の能力的には信長包囲網の構築が高く評価されたためか、「外交」は「S」という大盤振る舞いであるが、「外交」以外は全く役に立たない。
シナリオ2では、仏門の身ながらも、兄を助けて東奔西走することになり、シナリオ3とシナリオ6では主君を務める。シナリオ4では、毛利家の家臣になっているのも、渋い設定である。
特にシナリオ3では、多聞山城を拠点に松永久秀らを従えるという面白いシチュエーションとなっている(史実ではない)。このシナリオでは割と高い確率で織田家に滅ぼされるが、プレイヤーとして選択した場合は、やってやれないこともない。
「主君」としての義昭は、戦闘にはまったく向かないため、彼の知行は全て戦闘要員に割り振ってしまった方が良い。彼の「外交」の高さを考えるならば、「ハイエナ作戦」で将軍自らが使える主を失った浪人のもとに赴き、自らの知行を割いて彼を召し抱えるという麗しいシチュエーションを展開することになる。
なお、将軍家でゲームをクリアした場合、エンディングで「幕府を開く」となるところが「足利幕府の威信を回復させた」となる(シナリオ3の将軍家、同盟統一で確認)。意外と芸が細かい。
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