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             ?〜1583。1541年には父の惟豊の命により、島津家に組した御船氏を討っている。1559年より父の死によって阿蘇家の第19代当主となる。惟将は、甲斐宗運の補佐を受け、大友家と結ぶことで独立を維持した。 
             
             1578年に「耳川の戦い」によって大友家が弱体化した後は、北の竜造寺家、南の島津家からの圧迫が強まった。惟将は竜造寺家と結んで島津家の北進に対抗し、1581年には宗運が「響野原の戦い」で島津家に組した相良義陽の軍を撃破した。 
             
             惟将は1583年に死去したが、息子がいなかったため、弟の惟種が跡を継いだ。しかし、惟種も間もなく死去し、宗運も同時期に世を去った。この相次ぐ阿蘇家指導者層の死は、阿蘇家の家運を大きく傾けることとなった。 
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