| ●能力値 |
| 名前 |
有馬晴信 |
能力 |
戦闘 |
内政 |
外交 |
謀略 |
忠臣 |
| 読み |
ありま・はるのぶ |
能力値 |
C |
C |
B |
C |
× |
| 生没年 |
1567〜1612 |
軍師 |
― |
― |
― |
― |
顔 |
| 登場年 |
1583年 |
上昇 |
― |
― |
― |
― |
汎用 |
| 血族 |
肥前有馬? |
備考 |
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| ●シナリオ |
| シナリオ |
所属勢力 |
身分 |
居城 |
初期知行 |
兵科 |
| S1 |
42年後 |
与力 |
? |
0.0万石 |
? |
| S2 |
23年後 |
与力 |
? |
0.0万石 |
? |
| S3 |
11年後 |
与力 |
? |
0.0万石 |
? |
| S4 |
1年後 |
与力 |
隈本城 |
0.0万石 |
足軽 |
| S5 |
鍋島家 |
与力 |
大村城 |
1.4万石 |
足軽 |
| S6 |
竜造寺家 |
与力 |
玖島城 |
0.5万石 |
足軽 |
| ●略歴 |
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1567〜1612。肥前有馬氏の有馬義貞の次男。ちなみに、肥前有馬氏は、前述の摂津有馬氏とは全く関係がない。兄の急死により、1571年より4歳で有馬家の当主となるが、1576年に義貞は死去、1579年より竜造寺家に服従する。
その後、晴信はキリスト教に改宗し、南蛮貿易で大きな利益を上げた。また、1582年には大友宗麟らとともに「天正遣欧少年使節団」を派遣している。しかし、その一方では、領内の寺社を破壊した、領内の仏教僧を追放しており、さらには領民を奴隷として国外に売り払ったという噂もある。
島津家が北上してくると、晴信は島津家に呼応して竜造寺家に反旗を翻した。晴信は、竜造寺隆信が差し向けた竜造寺政家の攻撃を持ちこたえ、隆信自らが押し寄せると、島津家に救援を要請した。1584年の「沖田畷の戦い」において、晴信は名目的な総大将として森丘城に籠り、島津家久らの活躍によって隆信が戦死すると、敗走する竜造寺軍の追撃に参加した。
秀吉が九州攻略に乗り出すと、晴信は秀吉陣営に鞍替えした。1587年、秀吉は伴天連追放令を出し、キリシタン大名の多くは、これに迎合して棄教したが、晴信は信仰を貫いたため、各地からキリスト教徒が庇護を求めてきた。この地は後に島原藩となり、「島原の乱」を惹き起こすことになるが、単純に、これが反乱の原因というわけでもないようである。
1592年の「文禄の役」では小西行長の一番隊に属して先鋒を務め、平壌まで侵攻すると、他の諸将とともに平壌の守備にあたった。1597年からの「慶長の役」では左軍に所属し、南原城の攻略に従事している。「豊家の変」の際には九州にいたが、最終的に東軍として所領を安堵された。
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| ●「ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ事件」と「岡本大八事件」 |
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1609年、晴信の朱印船の乗員がマカオで騒動を起こし、マカオ総督ペソアに鎮圧されたため多数の死者が出た。このペソアが来日した際、晴信は長崎奉行長谷川藤広とともに彼の乗船ノサ・セニョーラ・ダ・グラサを襲撃し、ペソアを自害に追いやった。
この事件の後、晴信は本多正純の与力の岡本大八から、現在鍋島家の領土となっている旧有馬家の領地の返還が行われるという話を聞いた。晴信は大八に資金を提供して積極的な返還運動を行ったが、その資金は大八の懐に収められた。
1612年、この件が明るみに出たことにより、大八は死罪となったが、晴信もまた「ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ事件」の際に藤広の殺害を口走ったことと、結果として幕閣に賄賂を贈っていたことが問題となり、所領没収の末、甲斐に流刑となった。
さらに、この年のうちに晴信には切腹が言い渡された。しかし、晴信は最後までキリスト教徒としての信仰を貫き、家臣に首を討たせたという。なお、没収された所領は、息子の直純が家康の養女を妻としていたこともあり、そのまま直純が受け継ぐこととなった。
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| ●ゲーム |
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主な登場シナリオは5と6であるが、シナリオ4でも翌年には浪人として登場する。それ以前のシナリオでは父の義貞のもとで元服すると思われるが、未検証である。能力的には身分がそこそこで「外交」が高いため、外交官として他勢力の城に張り付かせておくのに適している。 また、「忠臣属性」が低く、引き抜きやすい人物ではあるが、無理をしてまで必要という人材ではない。
「外交」の高さは、竜造寺、島津、豊臣、徳川の間をうまく切り抜けた結果であり、「忠臣属性」の低さも、それによるものであると思われる。しかし、その最期を思えば、「謀略」は下げてもよさそうな気がする。
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