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1537〜1609。出自については執権北条氏の末裔とする説がある。真言宗の僧侶であったが、北条氏康に見いだされて彼の右筆(秘書官)となり、後には評定衆として国政に関与した。
1573年に武田信玄が死ぬと、江雪斎は甲斐に赴き、その生死を確かめようとした。この時、信玄の弟の信廉が信玄に扮して江雪斎に接したが、江雪斎は見破ることができず、信玄は健在であると報告した。
1582年、信長死後の「天正壬午の乱」では、北条家の代表として徳川家との講和を取りまとめただけでなく、北条氏直と家康の娘の督姫の婚姻を取りまとめ、北条・徳川同盟を成立させた。
1589年、江雪斎は拝謁し、北条家と真田家の沼田城の領有を巡る問題の調停を願い出た。この時、その見識と態度を秀吉から称賛され、裁定の約束を取り付けることもできたが、猪俣邦憲が力づくで沼田錠を占拠したことから、これらの折衝も水の泡となった。
北条家滅亡後、江雪斎は秀吉の御伽衆となり、姓を「岡野」と改めた。秀吉の死後は家康の会津遠征に従軍、そのまま徳川家の家臣となり、その旗本として家系を保った。
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