| ●能力値 |
| 名前 |
井伊直政 |
能力 |
戦闘 |
内政 |
外交 |
謀略 |
忠臣 |
| 読み |
いい・なおまさ |
能力値 |
B |
B |
C |
C |
○ |
| 生没年 |
1561〜1602 |
軍師 |
― |
― |
― |
― |
顔 |
| 登場年 |
1577年 |
上昇 |
― |
― |
― |
― |
固有 |
| 血族 |
― |
備考 |
徳川氏天王 |
| ●シナリオ |
| シナリオ |
所属勢力 |
身分 |
居城 |
初期知行 |
兵科 |
| S1 |
36年後 |
地侍 |
? |
0.0万石 |
? |
| S2 |
17年後 |
地侍 |
? |
0.0万石 |
? |
| S3 |
5年後 |
重臣 |
? |
0.0万石 |
? |
| S4 |
徳川家 |
重臣 |
掛川城 |
3.0万石 |
鉄砲 |
| S5 |
徳川家 |
奉行 |
厩橋城 |
2.6万石 |
鉄砲 |
| S6 |
徳川家 |
重臣 |
岡崎城 |
0.4万石 |
足軽 |
| ●略歴 |
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1561〜1602。父の直親は今川家に仕えていたが、謀反の嫌疑をかけられ、朝比奈泰朝に殺された。直政は父の友人であった新野親規の助命によって命を救われ、親規の養子となったが、親規もまた1564年の飯尾連竜の反乱の際に戦死してしまう。しかし、今度は母の再婚相手の松下清景の庇護を受け、彼を通じて徳川家康の小姓となった。
直政は、1576年の武田家との戦いで初陣を飾り、1581年の高天神攻略戦では、間諜を使って城の水路を経ち、その攻略に貢献した。「本能寺の変」以後の伊賀越えの際にも家康に同行し、「天正壬午の乱」では、北条家との講和を担当した。情勢が落ち着くと、これらの功績によって遠江国井伊谷4万石に封じられた。
さらに、直政は武田家の遺臣を委ねられ、その軍装を赤で統一した。1584年の「長久手の戦い」では、この「赤備え」を率いて家康に従い、家康の本隊とともに池田恒興率いる別動隊と交戦、これを殲滅した。1585年、石川数正が秀吉のもとに出奔すると、直政は、軍事機密の漏洩に備えた軍制改革の中心人物となった。
1586年、直政は、講和の際に人質として家康のもとに送られていた大政所を秀吉のもとに護送した。役目をはたして秀吉の供応を受けた際、数正も同席していたが、直政は数正と同席することを拒んだという。
1588年、直政は秀吉より従五位下に叙任され、侍従に任命された。1590年からは「小田原の戦い」にも従軍し、戦後に家康が関東に封じられると、上野国箕輪12万石を与えられた。これは家中トップの石高であった。
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| ●「豊家の変」以後 |
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「関ヶ原の戦い」に先立ち、家康が会津に侵攻すると、直政は本多忠勝とともに尾張で守りを固めていた。石田三成の挙兵を知った家康が、池田輝政、福島正則らを中核とする先遣隊を送ると、直政らは清洲城で彼らと合流し、軍議を開いた。
その際、岐阜城攻めの配置を巡って輝政と正則が争ったが、直政らは彼らをなだめ、正則が搦め手に回ることを承諾させている。直政らは正則の隊に属して岐阜城を落とし、清水村に集結していた残存兵も兵を送って一掃させた。
「関ヶ原の戦い」における直政は、前軍統監の松平忠吉の補佐役となり、先陣を命じられていた正則を出し抜いて戦端を切った。東軍の勝利が決定し、島津義弘が戦線離脱しようとすると、直政らは家康の命を受けて追撃したが、その際に鉄砲で撃たれて深手を負った。戦後、直政らが家康の前に出頭すると、家康は自ら直政の傷口に薬を塗り、残った分を同じく負傷していた忠吉に与えた。
直政は、そのまま佐和山城攻めの軍監を務め、戦後は三成の旧領であった近江国佐和山18万石に封じられた。しかし、傷の癒えない内から戦後処理に奔走し、「関ヶ原の戦い」の2年後に死去した。その後、佐和山城は彦根城と改められ、井伊家は彦根藩の藩主として幕閣の重きをなした。
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| ●ゲーム |
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家康に仕えるシナリオ4以降は身分も高く、特に鉄砲を装備しているシナリオ4と5では、軍事面の中枢となる人物である。ゲーム開始時に知行を最大値まであげておきたい武将の1人と言える。
彼のような能力傾向であれば、普段は内政を行わせ、敵が攻めて来たら迎撃に向かう役を担わせたいが、人材の豊富な徳川家ならば、むしろ鉄砲を装備しているメリットの方が大きい。侵攻用の軍団に編入し、序盤から鉄砲を有効に活用したい。
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