4
概要
本作にデフォルトで設定されている統治者は、モンゴル編14人、世界編27人の合わせて41人である。ただし、モンゴル編の第1国族長テムジンと世界編の第1国国王ジンギスカンは同一人物であるため、実質40人ということになる。
彼らの詳細については、「人物事典」のほか、「中世大陸情勢」でもある程度紹介されているが、ゲームに関連した情報しかない人物が少なからずいる。ここでは、そうした人物を以下の項目に分類し、補足解説を加えた。
本書に解説はあるが、補足するべき情報がある
実在の人物であるが、本書に情報がない
爵位や称号が名前になっている
現状では比定不可能。あるいは架空の人物
1206年時点で死去している
| シナリオ |
名前 |
所属 |
事典 |
名鑑 |
備考 |
| 世界 |
サラディン |
アイユーブ朝(21国) |
196 |
167 |
1193年死去 |
| 世界 |
神宗 |
高麗(18国) |
197 |
― |
1204年死去 |
| 世界 |
ハインリヒ6世 |
神聖ローマ帝国(9国) |
199 |
191 |
1197年死去 |
| 世界 |
源頼朝 |
日本国(19国) |
201 |
165 |
1199年死去 |
| 世界 |
リチャード1世 |
イングランド(7国) |
202 |
165 |
1199年死去 |
以降のシリーズで名前が変わった
| シナリオ |
名前 |
所属 |
事典 |
名鑑 |
備考 |
| モンゴル |
クドカベキ |
オイラート族(11国) |
195 |
174 |
クドカ・ベキ |
| モンゴル |
タヤンカン |
ナイマン族(12国) |
197 |
166 |
ダヤン・ハーン |
| モンゴル |
デイセチン |
オンギラト族(3国) |
198 |
171 |
デイ・セチェン |
| モンゴル |
トオリオルカン |
ケレイト族(7国) |
198 |
166 |
トオリル・ハーン |
| モンゴル |
トクトア |
メルキト族(8国) |
198 |
174 |
トクトア・ベキ |
| 世界 |
ジンギスカン |
モンゴル帝国(1国) |
197 |
164 |
チンギス・ハーン |
| 世界 |
ナラパテシトゥ |
パガン朝(25国) |
198 |
177 |
ナラパテシトゥ― |
| 世界 |
フセボロト3世 |
キエフ公国(4国) |
199 |
180 |
フセヴォロド3世 |
本書内に情報がある
| シナリオ |
名前 |
所属 |
事典 |
名鑑 |
| モンゴル |
アラクシュ |
オングット族(4国) |
194 |
172 |
| モンゴル |
アルスラン |
カルルク族(14国) |
194 |
175 |
| モンゴル |
クトテムル |
タタル族(2国) |
195 |
171 |
| モンゴル |
ジャムカ |
ジャダラン族(5国) |
196 |
164 |
| モンゴル |
タルクタイ |
タイチウト族(5国) |
197 |
172 |
| モンゴル |
テムジン |
モンゴル族(1国) |
198 |
― |
| 世界 |
エンドレ2世 |
ハンガリー(10国) |
195 |
180 |
| 世界 |
桓宗 |
西夏(16国) |
195 |
188 |
| 世界 |
ゴーリー |
ゴール朝(24国) |
196 |
166 |
| 世界 |
宣宗 |
金(2国) |
197 |
― |
| 世界 |
チルク |
西遼(14国) |
198 |
176 |
| 世界 |
寧宗 |
南宋(26国) |
198 |
177 |
| 世界 |
バルラーラ2世 |
インド諸王朝(23国) |
199 |
180 |
| 世界 |
フィリップ2世 |
フランス(8国) |
199 |
165 |
| 世界 |
ムハンマド |
ホラズム(13国) |
201 |
166 |
備考
表のリンク先では、各項の注目点をまとめている。また、リンク先のタイトル部分のリンクは、上の表に戻るためのリンクである。各人物は、まず「シナリオ」でモンゴル編と世界編に分け、そのうえで50音順に記載している。「所属」に関しては( )で国番号を示した。
「事典」は本書の「人物事典」に掲載されているページ、「名鑑」は、『元朝秘史ハンドブック』の「元朝秘史・人物名鑑」において、その人物の記載があるページを示している。
「Wikipedia」は、それぞれのキャラクターのWikipediaへのリンクであるが、「バルチュク」のリンクは、「天山ウイグル王国」の一項目となっている。また、「ザクセン公」に相当するベルンハルト3世へのリンクは日本語版がないため、英語版となっている。
「1206年時点で死去している」以降のリストについては、本書内で解説がある人物のため、「Wikipedia」は省略し、ここでも解説を行っていない。注目するべき点については、タイトル部分と「備考」の欄に示した。
本書に解説はあるが、補足するべき情報がある
クトテムル
本書の解説は「モンゴル高原に最大の勢力を誇り、ジンギスカンの父の仇でもあったタタル部のうち、デルベン・タタルの首領。トオリオルカンに敗れた後ナイマン部を頼ったが、その滅亡と運命をともにした」。
結論から言うと、タタル部族にデルベン氏族というものはない。これは『元朝秘史』の第4巻141節(:*1)にジャムカをグル・カンに推戴した諸族としてドルベンとタタルが並んで記されており、これを誤解したものと思われる。
『元朝秘史』の第1巻11節(*2)によると、ドルベン氏族はモンゴル部族に属する。一方、『モンゴル帝国史1』によると、ジャムカがトオリル・カンを暗殺してケレイト部族の乗っ取りを目論んだ際、それに賛同したタタル部族の族長として「クト・ティムール」の名が見られる(*3)。
クト・ティムールらは、計画を察したトオリル・カンが先手を打って攻撃したため、敗れてナイマン部族のもとに逃れた。表記の近似性や本書の内容との一致性からも、クトテムルはクト・ティムールのことであると御手間違いはない。ただし、『モンゴル帝国史1』によると、彼の記述はここだけで、ナイマン部族とともに滅びたのかどうかに関する記述はない。
アレクシオス
この時代のアレクシオスは、3世と4世の2人がいる。本作のアレクシオスは3世であり、イサキオスの弟、アレクシオス4世の叔父にあたる。『元朝秘史』以降、この人物は「アレクシオス3世」の名で登場し、甥の方も「アレクシオス4世」と表記されることで同名の人物の差別化が図られるようになった。
ちなみに、アレクシオス3世はイサキオス2世らと帝位を巡って争い、敗れてビザンツ帝国を追われた。しかし、イサキオス2世らも帝位奪回のために手を組んだ第4回十字軍と対立して殺され、1206年の時点でビザンツ帝国はラテン帝国に乗っ取られている(*4)。本作の状況は史実とは大きく異なる点に注意する必要がある。
ケレクバド
アラーウッディーン・カイクバード1世。兄との後継者争いに敗れて幽閉されていたが、兄の死によってルーム・セルジューク朝(本作ではセルジュク連邦)の第11代スルタンとなる。積極的な領土拡張を行いつつ、1230年にはホラズムの残党、1234年にはアイユーブ朝など、領内に侵攻した敵勢力を撃退している。
彼の実際の在位年は1219年から1237年であり、1206年時点では当主の地位にない。本作の時代のルーム・セルジューク朝の当主は父のカイホスロー1世であり、『元朝秘史』では史実通りとなっている。ちなみに、『元朝秘史』には「ケレクバード」という人物が登場するが、彼は奴隷王朝のスルタンであるバルバンの息子にあたり、まったくの別人である。
『チンギスハーンPK』のシナリオ3は、カイクバード1世の在位期間に該当するため、ニケーア帝国所属の「カイ=クバード」として登場する。一方、バルバンの息子は『チンギスハーン』のシナリオ2において「ケイク=バード」として登場しており、「カイ=クバード」とは明確な区別がなされている。
実在の人物であるが、本書に情報がない
サチャベキ
サチャ・ベキ。ジェルキン族族長。一度はテムジンをモンゴル族のハーンに推戴するが、後に離反して殺された。『元朝秘史ハンドブック』やPS版『元朝秘史』の「人物事典」で経歴が紹介されている。
バスチカン
ロシアの歴史を記した『イパーチー年代記(*5)』には、バスティというボロヴェツ族の大公が登場する。彼は1223年にモンゴル軍がロシアを襲撃した際、キリスト教に改宗してルーシ諸侯に与している。なお、ボロヴェツ族はクマン族のロシアからの呼び名である。クマン族は東欧、キプチャク族はイスラムからの呼称であり、いずれも同じ民族を指す。
ロシアの歴史家であるコストマロフの『ロシアの歴史(*6)』では、ポロヴェツ族の指導者としてコチャン・カンとバスティが登場している。バスティについての事跡は『イパーチー年代記』と同じである。ポロヴェツ族は「カルカ河の戦い」でモンゴル軍に敗れると、コチャン・カンはハンガリーに逃れ、キリスト教に改宗して臣従を誓っているが、最後は暗殺されている。バスティの動向については不明である。
まとめると、バスティというクマン族の族長がおり、同格とみられる人物にコチャン・カンがいるため、バスティもカン、つまりバスティ・カンと呼ばれていた可能性はあるが、今回参照した資料では確認できなかったということである。
追記。バスティに関する情報は非常に少なく、当初は情報量が豊富なバチュマン・カンの表記のぶれであると思っていたが、バスティという人物がいることを確認したため、内容を改めることとした。これにより、PS版『元朝秘史』の「人物事典」に「1221年、キプチャク高原に侵入したモンゴル軍に対して、ロシア諸侯と共同して、カルカ河で会戦を行ったが敗戦した」人物はバスティのことに違いなく、彼をバチュマン・カンに当てはめようとしたのは、私の完全な誤りであったことをここに明記しておく。
バルチュク
バルチュク・アルト・テギン。西遼に服属していたがチンギス・ハーンが台頭すると彼に従った。この時に彼の娘を娶っており、以後はモンゴル帝国において重きをなした。
レシェク1世
本書には「ポーランド国王。大国に囲まれたポーランドを守り通すには役不足であった」としか記述がない。「役不足」の用法はともかくとして、レシェク1世はローマ法王およびハンガリーと手を組み、東方のルーシ系国家のハールィチ・ヴォルィーニ公国と戦ったが、1227年の諸公会議の際に暗殺された人物である。
彼はパソコン版ではモンタージュ顔であったが、ファミコン版で固有の顔グラフィックが用意された。また、『元朝秘史』や『チンギスハーン』にも登場しているが、『チンギスハーン』では父のカジミェシ2世が健在であり、レシェク1世は彼の家臣の「レシェク」として姿を見せている。
爵位や称号が名前になっている
カリフ
「カリフ」は、要するにイスラム教の教皇である。1206年当時のカリフはアッバース朝第34代カリフのアル=ナーセルであり、『元朝秘史』以降は、この名前で登場している。アル=ナーセルは、カリフの世俗的権力回復のために尽力したが、かえって情勢を混乱させる結果に終わった。
サキアパ
サキャ・パンディタ。1182~1251。チベット仏教のサキャ派の指導者。本作では「サキアパ」、『元朝秘史』では「サキアパンチェン」、『チンギスハーン』では「サキアパンディタ」と登場するたびに表記が変わっているが、「サキャ・パンディタ」は尊称で「サキャ派の博士」の意味。俗名はペンデントンドゥプ、法名はクンガ・ゲンツェンらしい。
本書の196ページには「吐蕃の国王」としか説明はないが、モンゴル帝国のチベット侵攻に対して降伏を申し出て認められている。この時に同伴した甥のパスパはフビライ・ハーンに仕え、パスパ文字を制定した。
ザクセン公
1206年当時のザクセン公はベルンハルト3世であるが、彼はドイツ騎士団領とは関係がないようである。1206年当時のドイツ騎士団長総長はヘルマン・フォン・ザルファであり、『元朝秘史』のシナリオ4では、史実通り彼がドイツ騎士団領を治めている。
スルタン
「スルタン」の語そのものは「世俗的統治者」を意味する。1206年当時のムワッヒド朝のスルタンはムハンマド・ナースィルである。『元朝秘史』および『チンギスハーン』では「ムハマドナーセル」として登場している。
現状では比定不可能。あるいは架空の人物
チムスイ
『元朝秘史ハンドブック』やPS版『元朝秘史』の「人物事典」において、架空の人物であることが明記されている。
ビスナム
彼は本書などで素性について触れられておらず、『元朝秘史』以降にも登場しないため、その経歴は不明である。
段宗
本書によると「一〇~一三世紀に現在の雲南省にあった大理国の皇帝。タイ族白蛮に属する」とあるが、大理国に「段宗」と呼ばれる皇帝はいない。
実際の1206年当時の皇帝は「段智祥」、諡号は「永恵帝」、廟号は「神宗」である。おそらくは、大理国の君主の氏である「段」と廟号の「宗」を合わせた名前と考えられる。なお、彼の廟号は、本作にも登場する高麗国王と重複している。
1206年時点で死去している
サラディン
史実では1193年に死去、1206年時点では弟のアル=アーディルがアイユーブ朝のスルタンであった。続編の『元朝秘史』の1206年シナリオでは、以下の統治者を含め、いずれも時系列に合った統治者に変更されている。
神宗
史実では1204年に死去、1206年当時の高麗王は嫡子の熙宗である。
源頼朝
史実では1199年に死去、1206年当時の征夷大将軍は息子の実朝。
リチャード1世
史実では1199年に死去、1206年当時のイングランド王は弟のジョン。
ハインリヒ6世
史実では1197年に死去。1206年当時は神聖ローマ帝国の帝位を巡ってハインリヒ6世の属したホーエンシュタウフェン家と、その継承に異議を唱えるヴェルフ家が双方ローマ王を称して争っており、神聖ローマ帝国皇帝は不在であった。
続編の『元朝秘史』の1206年シナリオでは、ヴェルフ家側のオットーが神聖ローマ帝国の統治者となっている。また、本作のハインリヒ6世は能力が非常に高いにもかかわらずモンタージュ顔であったが、FC版で固有の顔グラフィックが追加された。
追記。当初はホーエンシュタウフェン家のフィリップを神聖ローマ帝国皇帝と記していたが、ローマ王の誤りであったため、書き直すこととした。ちなみに、フィリップは以降のシリーズでシュヴァーベン公の名で登場している。
*1
『元朝秘史(上)』、151ページ。
*2
『元朝秘史(上)』、16ページ。
*3
『モンゴル帝国史1』、70ページ。
*4
このあたりの事情については、本書148~149ページの「剥げ落ちた十字 ヴェネツィア商人の陰謀」で紹介されている。
*5
原題は『Ипатьевская летопись』。今回はロシア語版Wikipediaからリンクで飛んだ先のサイトのテキストをメインに利用した。このサイトはブルガリア語らしく、下記のロシア語のテキストとは、同じキリル文字ではあるが、単語に多少の相異が見られる。
バスティ(表記はБастъı、英語だとBastyj)の名は「Въ лЂто 6732(1224)」の章に見られる。なお、彼の肩書はボロヴェツの大公(кнзь
Половецкъıи)であり、カン(Хан)とは称されていない。
*6
原題は『Русская история』。「カルカ河の戦い」に従軍したヤルンのWikipediaの参考文献を参照した。バスティ(キリル語表記はБастый)の名は第6章に見られる。やはり、こちらでもバスティはポロヴェツの大公(князь
половецкий)である。