武将総覧
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●能力値 名前 今井宗薫 能力 戦闘 内政 外交 謀略 忠臣 読み いまい・そうくん 能力値 D D E E ○ 生没年 1552~1627 軍師 ― ― ― ― 顔 登場年 1568年 上昇 ― ― ― ― 汎用 血族 今井? 備考 ●シナリオ シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵科 S1 ― ― ― ― ― S2 ― ― ― ― ― S3 浪人 地侍 二条城 0.0万石 足軽 S4 浪人 地侍 二条城 0.0万石 足軽 S5 浪人 地侍 二条城 0.0万石 足軽 S6 ― ― ― ― ― ●略歴 _
1552~1627。宗久の嫡男。豊臣政権下では茶頭を務めるが、父の所領2200石の相続は認められず、改めて1000石を与えられるなどの冷遇を受けたため、徳川家康に接近する。これにより、「豊家の変」でも東軍に属し、戦後は300石を加増された。続く「大坂の陣」でも徳川方として参戦したが、豊臣軍に捕らえられ、家財も戦乱で焼かれるなどの被害を被った。戦後は徳川家の旗本として家名の存続を許された。
_●ゲーム _
宗久とは血縁関係にあると思われるが、宗薫が登場するシナリオでは、いずれもスタート時から宗薫が存在しているため、検証は困難である。しかし、この能力値を見れば、細かく検証してみようという気も失せてしまう。父親はともかく、彼を積極的にスカウトする理由は何もない。
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●能力値 名前 今枝重直 能力 戦闘 内政 外交 謀略 忠臣 読み いまえだ・しげなお 能力値 C C C C ○ 生没年 1554~1627 軍師 ― ― ― ― 顔 登場年 1570年 上昇 ― ― ― ― 汎用 血族 ― 備考 ●シナリオ シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵科 S1 ― ― ― ― ― S2 ― ― ― ― ― S3 ― ― ― ― ― S4 ― ― ― ― ― S5 前田家 部将 金沢城 0.9万石 足軽 S6 ― ― ― ― ― ●略歴 _
1554~1628。美濃出身。はじめは斎藤家につかえ、その滅亡後は織田家に属した。1571年の「姉川の戦い」では、稲葉一鉄に従って浅井軍の側面を突き、自らも首級を挙げた。1572年の「第一次長嶋一向一揆」では、柴田勝家に属して殿を務め、生還した。
重直は、1575年の「長篠の戦い」でも功績を挙げ、戦後は安土城においてはじめて信長に拝謁することになった。この時、重直は明智光秀から親しく声をかけられている。これは、かつて重直が長良川に船を浮かべて鮎を捕った際、みすぼらしい装いの光秀に鮎を1匹乞われたため、5、6匹をまとめて差し出したことに対し、改めて礼を述べられたものであった。
その後、重直は織田信雄に属し、1584年の「小牧長久手の戦い」では、従者1人を引き連れて池田恒興の陣を強行偵察した。その際、恒興の兵の襲撃を受けるが無事に偵察を完了し、その勇気を称賛された。1591年、豊臣秀吉が関白を退き、豊臣秀次が跡を継ぐと、重直は秀次に属することとなり、加増されて尾張に5300石の知行を得た。1594年、秀次の上奏が認められ、諸臣に官位が授けられることとなった。重直も、この恩恵にあずかり、従五位下に叙任されるとともに、内記の官職を得た。
1595年に秀次が処刑されると、重直は前田利長の招聘を受けて加賀に移り、3000石の知行を得た(後に2500石を加増され、5500石を有することになる)。1600年、「豊家の変」では、前田家の大聖寺城攻めに従軍し、後方の守りを固める任にあたった。1605年、利長が隠居して越中の高山城に移ると、重直も彼に従った。1607年、重直は命を受けて江戸に入ったが、度々徳川秀忠の来訪を受け、共に能を鑑賞した。さらに、帰国の際には書物を贈呈されるなどの厚遇を受けている。
1611年、利長が隠居地のうち10万石を前田家の本領に還元した際、重直は前田家当主に直属することとなった。そのため、1614年からの「大坂の陣」にも参戦した。特に「大坂夏の陣」では、岡山口を攻めるにあたり、くじを作って吉凶を占い、吉を出して将兵の指揮を鼓舞した。
1619年、重直は剃髪して「宗二」と称し、隠居料として500石を与えられた。1628年1月、重直は死去した。家督は養子が継いだが、この養子は、かつて「小牧長久手の戦い」の際、重直を追撃した人物と、重直の妹の間に産まれた子供であった。
_●ゲーム _
本作ではシナリオ5にのみ登場。能力的にも身分的にも数合わせ要員と言って差し支えはない。しかし、数合わせ要員であるならば、むしろシナリオ4の北畠(信雄)家の方が必要な人材であったはずである。
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●能力値 名前 今川氏真 能力 戦闘 内政 外交 謀略 忠臣 読み いまがわ・うじざね 能力値 E C C E △ 生没年 1538~1614 軍師 ― ― ― ― 顔 登場年 1554年 上昇 ― ― ― ― 固有 血族 今川 備考 ●シナリオ シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵科 S1 13年後 宿老 ? 0.0万石 ? S2 今川家 宿老 駿府城 4.0万石 足軽 S3 浪人 地侍 浜松城 0.0万石 足軽 S4 浪人 宿老 二条城 0.0万石 足軽 S5 徳川家 与力 江戸城 0.8万石 足軽 S6 今川家 宿老 駿府城 5.3万石 足軽 ●今川家滅亡まで _ 1538~1614。今川義元の嫡子。1554年に三国同盟が結ばれた際、北条氏康の娘の早川殿を娶る。その数年後に今川家の家督を相続したと見られているが、この時点では、まだ義元が実権を握っていたらしい。しかし、1560年の「桶狭間の戦い」で義元が戦死したことにより、氏真は名実ともに今川家の当主となり、義元亡き後の今川家の立て直しを図ることになった。_
このころ、今川家の傘下にいた徳川家康は、しきりに氏真に仇討ちを促していたが、氏真は喪中を過ぎても動かなかった。そのため、家康は氏真に見切りをつけ、織田信長と同盟を結んだ。これにより、今川領のうち、三河は完全に独立したかたちとなり、遠江でも諸将の離反が相次いだが、氏真は1566年までに遠江の反今川派領主を討ち、遠江の騒乱を鎮めた。
1567年になると、武田家に嫁いでいた氏真の妹が、夫の武田義信の死に伴い、今川家に送り返されてきた。これにより、三国同盟のうち、今川家と武田家の婚姻関係は消滅したことになった。そのためか、翌年の1568年に武田信玄は三国同盟を一方的に破棄、駿河へと兵を進めた。
氏真は、北条家の支援を受け、塩の禁輸政策などで対抗した(ちなみに、この時に上杉謙信が武田家に塩を売ったのが「敵に塩を送る」の由来である)ものの、最終的には駿河を追われ、朝比奈泰朝の守る遠江の掛川城に退去した。しかし、掛川城も信玄と手を結んだ家康の攻撃を受けて開城を余儀なくされ、氏真は妻の実家の北条家に身を寄せた。これにより、大名家としての今川家は滅亡したことになる。●その後半生 _ 一方、今川家を滅ぼした信玄は、悪化した北条家との関係を修復する必要があった。そのため、氏真のもとに使者を遣わし、切腹を迫らせるという噂を故意に流布させた。これを信じた氏真は、海路で西に向かったが、途中で強風にあおられ、遠江で足止めを食うことになった。これにより、氏真は遠江を支配していた家康の庇護を求めたが、思いのほか手厚いもてなしを受けたため、しばらくの間遠江に滞在し、信長の来訪も受けている。_
その後、氏真は上京し、当代の文化人と交流を深めた。また、1575年には、再び信長と対面し、その願いによって蹴鞠の奥義を披露している。その一方、氏真は織田軍の軍事行動にも参加し、「長篠の戦い」にも従軍、その後は諏訪原城攻略にも参加し、攻略後は城主を任されたが、間もなく解任された。1582年に武田家が滅亡すると、氏真は旧領駿河への復帰を信長に求めたが、信長の勘気を被った。そのため、信長が死ぬまで懲罰を恐れていたと言う。
これ以後、氏真は京都と徳川領を往来し、文化人や徳川家家臣団、さらには家康本人との交流を続けた。1612年には家康より500石と品川に屋敷を与えられ、江戸に移り住むが、その翌年に妻の早川殿が死去した。彼女は、1554年以来、一貫して氏真と行動を共にしていた。その翌年には、氏真本人も死去したが、その系統自体は、徳川家の旗本として残り、代々儀式や典礼を司る高家を務めた。●ゲーム _
ゲーム的には、内政面で一応役に立つ位置づけとなっている。 「内政」については、治水、楽市、検地などの実績があるため、妥当なところであると言える。「外交」については、大名としての外交政策よりも、その後の生き残りのうまさの方が評価されているような気がしてならない。「戦闘」、「謀略」が最低なのは、実に氏真らしいと言えるが、実は塚原卜伝に剣技を学んでおり、彼を始祖と定める流派も存在する(ただし、信憑性は低い)。_
氏真は、戦国大名としては、非常に無能なことで知られる。特に、親の仇である信長の前で蹴鞠を披露したというエピソードのインパクトのためか、「パラメータに『蹴鞠』でもあれば救われただろうに……」、「俗事を超越した蹴鞠仙人」、「その完璧なまでの潔い低能力は戦国乱世にあってはアイドル的存在だった」などと言われてしまう。
しかし、義元の死から8年は勢力を保っており、父の死から滅亡までの期間自体は、武田勝頼の9年とあまり変わりがない。また、勝頼とは違い、夫人ともども天寿を全うした点、蹴鞠だけでなく、和歌にも才能を発揮した点。さらに、言うまでもなく家柄も良い点なども見直されており、氏真は、戦国大名に必要な能力以外は全て兼ね備えているが、肝心な能力だけがなかったと再評価する動きもないわけではない。
能力値 名前 今川義元 能力 戦闘 内政 外交 謀略 忠臣 読み いまがわ・よしもと 能力値 C S B C ◎ 生没年 1519~1588 軍師 ― ― ― ― 顔 登場年 1535年 上昇 ― ― ― ― 固有 血族 今川 備考 シナリオ シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵科 S1 今川家 主君 駿府城 7.9万石 足軽 S2 今川家 主君 駿府城 6.5万石 足軽 S3 ― ― ― ― ― S4 ― ― ― ― ― S5 ― ― ― ― ― S6 今川家 主君 駿府城 7.5万石 足軽 1.1519年~1542年の動向 _
1519~1560。氏真の父。五男として生まれたため、早くより僧籍に入る。太原雪斎を師として京都に上り、僧侶としての修業を積んだが、1536年には駿河に呼び戻された。しかし、間もなく今川家当主であった長兄と、その跡継ぎと見なされていた次兄が同時に急死するという変事が起きたため、義元は後継者争いに巻き込まれることとなった。_
義元は雪斎と母の寿桂尼の後押しを受けて還俗し、腹違いの兄を自害に追いやったうえで今川家の第11代当主となった。1537年には武田信虎の娘を娶り、武田家との結びつきを強めるが、これは武田家と敵対していた北条家を敵に回すことになり、これまで良好であった今川家と北条家は交戦状態に入った。この「第一次河東の乱」により、今川家は駿河の東部を失った。
1539年、三河で内乱が起こり、当主の松平広忠が今川家の庇護を求めた。義元は広忠を受け入れ、内乱が終結するまで遠江の茂呂城に住まわせた。内乱が終わると、広忠は家臣団に推戴されて三河に戻ったが、これによって義元は三河に大きな影響力を及ぼせるようになった。
1541年6月、信虎が駿河に赴いたが、その間に武田家ではクーデタがおこり、信虎の息子の信玄が武田家の当主を称した。義元は信虎を駿河に住まわせるとともに、信玄との協議を行い、武田家との同盟を維持した。1542年8月、義元は三河に侵攻した織田信秀と交戦したが、「第一次小豆坂の戦い」に敗れ、三河の支配体制に揺らぎが生じた。2.1545年~1551年の動向 _ 1545年になると、義元は上杉憲政ら関東の反北条勢力と手を組み、北条によって奪われた駿河東部の奪還を目論んだ。この「第二次河東の乱」は、信玄の助力もあり、10月までには北条軍を川越城にまで追い詰めたが、11月には信玄の仲介で講和が成立し、駿河東部を取り戻した。これにより、義元は戦力を西部に集中させることができるようになった。_
1547年、義元は、広忠の息子の竹千代(徳川家康)を人質として駿河に迎え入れる約束を取り交わしたが、その護衛役が裏切り、竹千代を織田家に引き渡した。義元は怒り、三河に兵を出して、この護衛役の一族を攻め滅ぼしたが、竹千代を奪還することはできなかった。
1548年3月、義元は再度駿河に進行してきた信秀の軍勢に対し、雪斎を総大将とする軍勢を遣わして「第二次小豆坂の戦い」に勝利した。さらに翌年1549年3月には、松平家中の騒乱で広忠が殺されたため、義元は松平家の領土を併合した。
そのうえで、同年9月より、雪斎は織田信広の守る安祥城の攻略に着手、11月には安祥城を陥落させ、信広を捕らえた。これを手札とした織田家との交渉により、信広と竹千代が交換されることとなり、義元は竹千代を奪還することができた。しかし、あくまでも竹千代は人質として義元の手元に置かれ、松平家の領地は今川家の管理下に置かれたままだった。
1551年3月、信秀が死去し、嫡男の信長が後を継いだ。これにより、織田家は内乱状態となり、義元は、それに乗じて尾張にまで勢力を拡大、内通者を受け入れて鳴海城を占拠した。また、1552年には、娘を信玄の息子の武田義信に嫁がせ、同盟を強化した。3.1553年~1560年の動向 _ その一方、1553年2月には、父の代に制定された分国法の「今川仮名目録」に21条を追加する。これにより、室町幕府の守護大名の義務であった「守護使不入(守護大名の領内に守護大名が立ち入ることのできない領域を設けること)」が撤廃され、名実ともに今川家は室町幕府からの独立を果たした。_
1554年、義元は氏真のために北条家から妻を迎えた。これにより、今川家、北条家、武田家との間で、相互に婚姻関係が成立し、甲相駿三国同盟が完成し、今川家の西方は、完全に安定した。1555年3月には、家康が元服したため、自分の一字を与えて「松平元康」と名乗らせ、後には一族の築山殿を娶らせて親族とした。また、この年の内に「第二次川中島の戦い」で対立する武田家と長尾家の講和を仲介する一方、領内では検地を実施している。
1558年、義元は終わりに対する圧迫を強め、織田軍と交戦を重ねた。1560年になると、信長は今川家の勢力下にある尾張の諸城の付近に砦を築き、それらの連携の遮断を謀った。6月には、義元自らが2万5千と言われる兵を動員し、4万と称して進撃を開始、今川軍の前衛は、織田軍の砦の攻略に成功したが、そのために前衛と義元の本隊は大きく引き離される形となった。
6月12日、義元の本隊は、豪雨の中で信長の急襲を受けた。この「桶狭間の戦い」の中で、義元は自ら太刀を振るって奮戦したが、最後には打ち取られた。義元の首は信長による検分の後、鳴海城の守りについていた岡部元信に引き渡され、駿河の臨済寺に埋葬された。4.ゲームでは _
最近はだいぶ見直されてきたが、それでも「傲慢な蹴鞠デブ」的な印象が強い。しかし、実際のところ、その行動は非常に緻密かつ堅実である。この行動パターンからすれば、1560年の尾張侵攻の真の目的が上京するつもりであったとする説も、にわかには信じがたい。その気が義元にあったとすれば、それを証明する動きが随所に見られているのではないかと思われる。
能力的には、「内政」の高さが目立ち、「外交」も低くはないが、戦闘関連の能力は並みである。しかし、本作のシステムとして、軍師補正を持つ太原雪斎と一緒に行動させれば、その弱点を補うことができるのであるが、シナリオ2ではすでに雪斎が死去しているため、もはや弱点を補強することはできない。これにより、「雪斎がいれば、『桶狭間の戦い』の悲劇は防げた」という世間の評価がうまく表現されているのである。実に秀逸なゲームシステムであると言わねばならない。
勢力としての今川家は、どのシナリオにおいても、豊富な国力と乏しい人材という特徴が共通している。なにせ、「第二次小豆坂の戦い」勝利した太原雪斎ですら、 「戦闘」は「C」なのである。そのため、人材の確保は急務であると言える。
これについては、CPUが良くやるように、物量に物を言わせて徳川家や織田家を滅ぼしても良いし、 石高の高さを生かしてt、「ハイエナ作戦」で片っ端から浪人をスカウトすることもできる。しかし、いずれにしても、元からいる凡将を厚遇する理由は、あまりないのが実情である。
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●能力値 名前 今福浄閑 能力 戦闘 内政 外交 謀略 忠臣 読み いまふく・じょうかん 能力値 D B B C ○ 生没年 1520~1584 軍師 ― ― ― ― 顔 登場年 1536年 上昇 ― ― ― ― 汎用 血族 ― 備考 ●シナリオ シナリオ 所属勢力 身分 居城 初期知行 兵科 S1 武田家 組頭 躑躅ヶ先館 0.1万石 足軽 S2 武田家 奉行 上原城 1.3万石 足軽 S3 武田家 奉行 上原城 2.0万石 足軽 S4 ― ― ― ― ― S5 ― ― ― ― ― S6 武田家 組頭 新府城 0.1万石 足軽 ●略歴 _
生没年不詳。諱は「友清」となど。甲斐国巨摩郡奈胡荘今福の領主。武田家に従属し、武田信玄の信濃侵攻に従軍する。1569年、信玄が駿河を攻略した後は、駿河の久能城城代となる。
_●ゲーム _
ゲーム的には優秀な内政官である。彼のように戦闘に出す必要のない内政官がいるからこそ、 「戦闘」と「内政」が高い人材を安心して戦争に駆り出すことができるというものである。
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