| 能力値 |
| 名前 |
織田信長 |
能力 |
戦闘 |
内政 |
外交 |
謀略 |
忠臣 |
| 読み |
おだ・のぶなが |
能力値 |
A |
A |
A |
B |
× |
| 生没年 |
1534~1598 |
軍師 |
- |
- |
- |
- |
顔 |
| 登場年 |
1550 |
上昇 |
○ |
○ |
○ |
- |
固有 |
| 血族 |
織田 |
備考 |
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| シナリオ4 |
| シナリオ |
所属勢力 |
身分 |
居城 |
知行 |
兵種 |
| S1 |
8年後 |
宿老 |
? |
0.0万石 |
? |
| S2 |
織田家 |
主君 |
清州城 |
5.0万石 |
鉄砲 |
| S3 |
織田家 |
主君 |
岐阜城 |
10.0万石 |
鉄砲 |
| S4 |
- |
- |
- |
- |
- |
| S5 |
- |
- |
- |
- |
- |
| S6 |
織田家 |
主君 |
清州城 |
5.0万石 |
鉄砲 |
| 略歴 |
1534~1582。信秀の息子。1551年に家督継承、1560年までに尾張国内を統一する。1568年に隣国美濃を征服した後、将軍足利義昭の上洛を支援して畿内に入り、以降は周辺の諸勢力との戦いに明け暮れる。14年の戦いにおいて数多の敵対者を撃ち破り、全国の約40パーセントに相当する約800万石を支配するに至るが、1582年6月、本能寺で家臣の明智光秀に討たれて死亡した。
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| 1534~1560 尾張統一 |
幼少より林秀貞、平手正秀らの補佐を受けて那古屋城主となる。12歳で元服、三郎信長を名乗り、翌年には今川領の三河に侵攻、初陣を飾る。14歳の時に齋藤道三の娘の濃姫を娶り、武芸に励むが、装束や立ち振る舞いは当時の常識から懸け離れたところがあり、「うつけ者」と呼ばれた。
1551年に信秀が死去、信長は嫡男として後を継ぐ。信秀の葬儀の際、信長は身なりを整えずに現れ、抹香をつかんで仏前に投げつけて帰ったという逸話は良く知られるところである。この後、まもなく尾張南西の鳴海城、北西の清州城が信長に反旗を翻した。信長は双方と交戦したが、いずれも滅ぼすことができず、領内に不穏分子を残すこととなった。
1553年5月、信長は齋藤道三と正徳寺で会見、道三は信長の才覚を認め、以後強力な後援者となった。1555年5月10日、信長は叔父の信光の助力で清州城を占領、尾張の北部を手中に収めた。1556年5月28日、美濃の内紛に決着がつき、道三は息子の義龍に殺された。兄の信広、親族の信安らが義龍に内通し、弟の信行も重臣の柴田勝家、林秀貞らに擁立されて反旗を翻したが、信長は1599年までにいずれも鎮圧し、南西部を除く尾張を掌握した。
1560年、今川軍は鳴海城を占領、領内の親今川派を信用できないものとして粛清し、織田軍と交戦した。6月12日、信長は桶狭間で待機中の今川軍の本隊を襲撃、義元を討ち取った。鳴海城に残っていた今川軍は義元の首級と引き換えに撤退、信長は尾張南西部を制圧し、尾張を統一した。
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| 1560~1570 美濃攻略と上洛、信長包囲網の形成 |
尾張統一時の信長は、北部の斎藤家、南西部の松平家と対立状態にあった。1562年、信長は松平元康と清州同盟を結び、敵を斎藤家に絞った。斎藤家との戦いは1567年まで続き、9月17日に美濃三人衆の手引きで稲葉山城を占領、斎藤家を滅ぼし、城の名を岐阜城と改めた。なお、この間に信長は妹の市を浅井長政に嫁がせ、同盟を結んでいる。
1568年8月18日、信長は越前より足利義昭を迎え入れ、その上洛のために西進、行く手を阻んだ六角家と三好家を撃退して義昭を京都に迎えた。その後、三好毛を中心とする畿内の勢力との抗争を制した信長は伊勢に侵攻、1569年11月12日に国司の北畠具教を降し、伊勢を支配下に収めた。
1570年5月24日、信長は越前に攻め込むが、長政の裏切りを知って撤退した。7月23日より反撃に転じ、30日には朝倉軍の援軍を得た長政と姉川で一戦を交えて勝利したが、浅井家を滅ぼすには至らなかった。信長は方向を転じ、9月19日より三好軍と交戦したが、10月12日より本願寺が敵対、10月15日には浅井家と朝倉家も反撃に転じ、信長は敵対勢力に包囲されるかたちとなった。
この情勢は一般的に「信長包囲網」と呼ばれる。都のある山城を中心にまとめると、北部の朝倉家、北東部の浅井家、西部の三好家、本願寺、南部の六角家の残党と各地の一向宗が敵に回り、南東部の徳川家、東部の武田家とは同盟関係にある。この時点では、まだ義昭は信長に対して敵意を露わにしていない。
なお、本願寺と一向宗は宗派的には同一の浄土真宗であり、原則的には本願寺が各地の一向宗に指令を出しているため、同じ勢力であると見なすこともできる。しかし、信長が一向宗と交戦している状態でも本願寺とは直接敵対していない時期もあるため、ここでは顕如直属の浄土真宗の勢力を本願寺、各地の浄土真宗の勢力を一向宗として分類する。
この認識を前提とすると、『戦国夢幻』で浄土真宗系の勢力が摂津の本願寺、伊勢の願勝寺、加賀の一向宗に分かれている事情も理解することができる。ここでは願勝寺と一向宗を一向宗として同一視しているため、ご了承願いたい。
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| 1572~1573 信長包囲網打破 |
信長は浅井家と朝倉家に狙いを絞ったが、両軍は後退して比叡山に布陣、比叡山延暦寺も敵対したため、信長は比叡山全体を包囲し、戦局は膠着した。この状況に対し、信長は正親町天皇や義昭に働きかけて1571年1月8日に講和を成立させ、事態を打開した。6月4日、信長は伊勢の長島に侵攻し、一向宗と交戦したが撤退した。9月7日、信長は北近江の一向宗を降伏させ、30日には比叡山を焼き討ちした。
1572年4月17日、信長は北近江に侵攻するが、浅井軍も朝倉軍の援軍を得たため、戦いは再び膠着状態に陥った。その間、西部では三好義継と松永久秀が敵に回り、勝家や佐久間信盛らが対処にあたった。
さらに東部では武田家と徳川家の抗争がはじまったため、信長は信盛率いる部隊を家康の救援に送った。1573年1月24日、「三方ヶ原の戦いの戦い」で徳川軍は敗退、信盛は逃げ帰ったが、間もなく信玄が死去したため、武田軍は撤収した。
一方、京都では義昭が挙兵し、信長と明確に敵対したため、3月23日より勝家らに対処させた。4月26日より信長自らが指揮を執り、5月7日に講和が成立、信長は再び浅井軍と朝倉軍との戦いに戻った。8月2日、義昭は再度挙兵したが、それを予期していた信長は迅速に対処し、8月15日に義昭を降し、京都から追放した。義昭は毛利家の庇護を受けて新たに備後の鞆に幕府を開いたが、すでに実権はなく、信長は事実上室町幕府に引導を渡したことになる。
その後、信長は再び北近江に戻り朝倉軍に攻撃を集中、撤退する朝倉軍を越前まで追撃、8月26日(9月22日)に朝倉家を滅ぼした。後ろ盾のなくなった浅井家も間もなく滅亡し、9月4日(9月29日)には勝家が抵抗を続けていた六角義治を降した。事態は好転しつつあったが、9月24日(10月19日)からの再度の長島侵攻は失敗した。
11月4日(11月28日)、佐久間信盛が三好義継を自害に追い込み、三好本家は滅亡、12月26日(1574年1月18日)には久秀も降伏し、信長包囲網を形成する勢力は、本願寺と武田家を残すのみとなった。
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| 1574~1575 本願寺および武田家との抗争 |
天正2年1月19日(1574年2月10月)、越前で一向一揆が蜂起、信長は秀吉らを派遣して対処にあたらせた。一方、東部では武田勝頼が跡を継いだ武田家が東進を再開、1月27日(2月28日)には美濃の明智城を包囲した。信長は自ら救援に向かったが間に合わず、明智城は陥落した。
3月27日(4月18日)、信長は大和の東大寺で蘭奢待を切り取った。4月3日(4月23日)、本願寺が挙兵し、再び信長と明確に敵対した。6月5日(6月23日)、武田家は遠江の高天神城を包囲、信長は家康を救援しようとしたが、明智城と同じく、こちらも間に合わなかった。7月13月(7月30日)、信長は3度目の長島攻撃を行い、9月29日(10月13日)に陥落させた。
天正3年4月1日(1575年5月10日)、信長は公家の領地に対して徳政令を発令、売り払われた領地を元の所有者に返させた。4月6日(5月15日)より信長は三好の残党と本願寺の連合軍と交戦した。信長は優勢を保っていたが、勝頼の西進に対して家康の救援に向かい、5月13日(6月21日)に「長篠の戦い」で勝頼率いる武田軍を撃破した。
7月3日(8月8日)、信長は朝廷より官位の昇進を許されたが、自らは受けずに家臣を推挙するにとどめた。8月12日(8月28日)、信長は越前に侵攻、およそ1ヶ月で一向一揆を殲滅すると、以降の指揮を勝家に任せ、光秀には丹後の制圧を命じた。
10月21日(11月23日)、本願寺との講和が成立、11月4日(12月6日)、権大納言兼右近衛大将に任じられた。このころ、美濃東部では嫡子の信忠が武田領の岩村城を攻略、その功績により秋田城介に任命された。これをきっかけとして、11月28日(12月30日)に信長は家督を信忠に譲った。
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| 1576~1577 本願寺との抗争 |
天正4(1576)年初頭より信長は安土城の築城を丹羽長秀に命じた。4月14日(5月12日)、本願寺が再度蜂起した。信長は光秀らに石山本願寺を包囲させたが、緒戦は戦いに破れ、原田直政が戦死した。5月6日(6月2日)、信長は自ら指揮を執り、負傷しながらも状況を打開、石山本願寺を再び包囲した。
7月15日(8月9日)、毛利軍の水軍が織田軍の水軍を撃破して包囲網を突破し、石山本願寺に食糧を届けた。信長は救援に向かおうとしたが、その前に決着がついたため、一帯の監視を強めるように命じた。11月21日(12月11日)、信長は右大臣に昇進した。
天正5年2月13日(1577年3月2日)、信長は紀伊に侵攻、およそ1ヶ月の戦いで講和が成立したため、見張りを置いて後退した。8月8日(9月19日)、信長は信長は勝家に加賀を攻めさせたが、その下に配属された秀吉が独断で撤退したため、激怒して謹慎を命じた。一般的には、この後に上杉謙信が加賀に侵攻し、「手取川の戦い」で織田軍が敗北したと言われているが、『信長公記』には記述がない。
8月17日(9月28日)、石山本願寺の包囲に加わっていた久秀が再び反旗を翻した。信長は信忠に鎮圧を命じた。信忠は10月10日(11月19日)に久秀を滅ぼして期待に応えた。10月23日(12月2日)、信長は秀吉に中国地方への侵攻を命じ、秀吉は1ヶ月の間に但馬と播磨を制圧した。
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| 1578~1580 本願寺との戦いの終結 |
天正6年10月21日(1578年11月20日)、久秀に続いて荒木村重が本願寺の包囲から離脱し、反旗を翻した。信長は自ら出陣、敵城の周囲に砦を築いて敵の連絡を絶つことで各個撃破を繰り返しつつ、高山右近ら与力の切り崩しを行った。
天正7年5月11日(1579年6月5日)、信長は完成した安土城の天守閣に移った。ちなみに、天守閣がいつ完成したのかは不明である。11月19日(1579年12月7日)、織田軍と荒木軍の交渉がまとまり、荒木軍の重臣たちは妻子を人質として伊丹城に残し、村重を説得することになった。しかし、彼らはそのまま逃走したため、信長は人質を全員処刑した。
天正8年3月10日(1580年3月25日)、信長は北条氏政からの使者を迎え、北条家の領土の安堵を認めた。閏3月6日(4月19日)、本願寺との講和が成立し、顕如らは石山本願寺から退去することを約束した。
5月7日(6月18日)、安土城下の整備が終わった。信長は一連の指揮を執っていた長秀に休暇を与えた。8月2日(9月10日)、石山本願寺の引き渡しが約束通り行われ、一向一揆との戦いに決着がついた。その際、石山本願寺攻略の指揮を取りながら功績を上げることができなかった佐久間信盛が叱責され、追放された。
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| 1581~1582 本能寺の変 |
天正9年2月23日(1581年3月27日)、信長は宣教師が連れてきた黒人奴隷を検分した。彼は後に弥助と名づけられ、信長に召し抱えられた。2月28日(4月1日)、信長は京都で馬ぞろえを催し、諸将を率いて市内を行進、8月1日(8月29日)には安土でも馬ぞろえを開催した。
一方、中国地方では鳥取城を巡って織田軍と毛利軍のにらみ合いが続いていたが、毛利輝元自ら出陣するという噂が流れたため、信長も自ら出陣することとし、諸将にも準備を整えるように命じた。9月3日(9月30日)、信雄が伊賀に侵攻した。一度信雄は独断で伊賀に攻め込むも撃退され、大きな損害を出して信長に叱責されたが、今回は攻略に成功、10月10日(11月6日)には信長自らが伊賀を視察した。
天正10年年1月27日(1582年2月19日)、信長は紀伊の内紛に介入し、親信長派の雑賀孫一を支援した。2月1日(2月23日)には信濃の木曽義昌が帰順し、勝頼は討伐の兵を出した。信長は信忠の軍勢を前衛として信濃に侵攻、3月11日(4月3日)には信忠が勝頼を自害に追い込み、その首は信長の元に送り届けられた。しかし、越中では勝頼の情報操作に惑わされて反乱がおこり、神保長住が幽閉されたものの、勝家らが即座に対応したために大事には至らず、信長は報告を受けて正しい情報を知らせた
3月29日(4月21日)、信長は義昌ら武田の降将を出迎え、恩賞を与えて所領を安堵するとともに、残りの旧武田領を家康と織田家の家臣団に分配した。4月10日(5月2日)、信長は帰国にあたり、徳川領を通過して富士山を見物するルートを選定した。道中では万事手配が行き届いていたため、家康の気配りに感嘆し、家康と家臣団に恩賞を贈った。
4月21日(5月13日)、信長は安土に戻り、信孝に阿波への侵攻を命じた。5月14日(6月4日)家康と穴山梅雪が安土を訪れたため、光秀に接待を任せた。中国地方では、秀吉の侵攻に対して毛利軍が反撃に転じたため、信長は自ら出陣することとし、光秀を含めた諸将に出陣を命じた。5月29日(6月19日)、信長は上洛し、6月1日(6月20日)には本能寺に宿泊したが、突如反乱を起こした光秀の襲撃を受けた。信長は逃げきれぬと悟り、無勢で応戦した後、自害した。
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| ゲーム中の役割 |
能力的には一流と言って良いが、「謀略」だけが1ランク落ちるのが目立つ。信行の謀殺や息子を利用した北畠家や神戸家などの伊勢諸勢力の乗っ取りなどで勢力を拡大、安定させた一方、家臣や同盟勢力に裏切られることが多く、特に「本能寺の変」を見抜けなかったことなどを相殺した評価であると考えられる。
「主君」を務めるシナリオでは、特に「本能寺の変」に注意が必要である。本作では極めて容易に発生するため、とにかく二条城には入城しないようにした方が良い。その意味でプレイしにくい勢力になってしまっているのが残念である。
シナリオ1にも一応登場するが、本格的なデビューはシナリオ2から。CPUが担当する場合、今川家と斎藤家に挟まれてジリ貧となり、滅ぼされることもある。その場合は「ハイエナ作戦」で確保しておきたい。最初から「鉄砲」を保有していることが多い、「忠臣属性」も低くて「登用」が容易、浪人になっても身分が高いなど、むしろ家臣としての方が利用しやすいかもしれない。
シナリオ6では織田家代表として一族を率いる。ちなみに、本作に登場する織田一族は信長を中心に父の信秀、叔父の信光、兄の信広、弟の信行、信包、有楽斎、息子の信忠、信雄、信孝、信高、孫の秀信、秀雄であるが、このうち信高と秀雄はシナリオ6には登場しない。
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