本編の年表 嘉祐3(1058)年 政和2(1112)年 政和3(1113)年 政和4(1114)年 政和5(1115)年 政和6(1116)年 政和7(1117)年 重和元(1118)年 宣和元(1119)年 宣和2(1120)年 宣和3(1121)年 宣和4(1122)年 宣和5(1123)年(120回) 宣和5(1123)年 宣和6(1124)年
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宣和6(1124)年に宋江は死去し、『水滸伝』は終わりを告げる。すでに物語としてはエピローグに入っているため、『水滸伝』として取り上げるべき事件はほとんどないが、史実としても大きな事件は起きていない。翌年には金が進行してくるため、最後の平穏な年である。
時系列 干支 西暦 回数 出来事 2月 6月下旬 99(119) 林冲死去 4月上旬 5月下旬 100(120) 宋江死去 年内 100(120) 戴宗死去
2月上旬 林冲死去
六和寺滞在中、林冲は風病(脳卒中)で半身不随となり、六和寺で療養していたが、半年後に死亡した。第99回の地の文に「半載」とある。これは半年ということである。宋軍が六和寺に駐屯していたのは宣和5年の8月ごろであるため、その半年後ということは宣和6年の2月ごろに死去したことになる。
4月上旬 宋江死去
呉を滅ぼした功績により楚州の安撫使兼兵馬都総管に任命された宋江であるが、彼を危険視する蔡京らが贈った毒酒を飲み、死亡した。その際、李逵が事実上道連れにされ、呉用と花栄が後を追って自害した。第100(120)回の地の文に「首夏初旬」とある。「首夏」は4月のことである。
以下は私見。これを人を陥れ、使い潰してきた宋江が、蔡京らに陥れられ、使い潰されるという構図として見るならば、案外因果応報を意識したものなのではないかと考えられる。そして高俅らも、間もなく宋そのものが滅びることで悪政の報いを受け、因果応報は完成することになる。
年内 戴宗死去
戴宗は戦功によって兗州都統制に任じられたが、辞退して出家し、泰安州にある嶽廟の陪堂となった。「後數月」、死期を悟って嶽廟の道士に別れを告げた後、大笑いしながら死去した。第100(120)回に「後數月」とある。宋江と別れてから数か月後ということことである。
本項では、宣和5(1123)年9月26日に宋江らが方臘の乱鎮圧の恩賞を授けられたと定義した。最低でも9月下旬、実際には、宋江の里帰りを挟んだ後に数ヶ月後ということになるため、宣和6(1124)年の前半の出来事であると考えられる。
なお、余談ではあるが、『水滸後伝』では戴宗は死なず、生きたまま李俊らと合流している。