能力値
 名前  羽柴秀吉  能力  戦闘  内政  外交  謀略  忠臣
 読み  はしば・ひでよし  能力値 B A A A
 生没年  1536~1598  軍師 - - - -  顔
 登場年  1552年  上昇  固有
 血族  羽柴  備考  
 シナリオ4
 シナリオ  所属勢力  身分  居城  知行  兵種
 S1  10年後  地侍  那古屋城  0.0万石  ?
 S2  織田家  組頭  清州城  0.1万石   足軽
 S3  織田家  重臣  観音寺城  4.0万石  足軽
 S4  羽柴家  主君  姫路城  8.0万石  鉄砲
 S5  -  -  -  -  -
 S6  豊臣家  主君  大坂城  10.0万石  鉄砲
 略歴
 
1537~1598。織田家家臣として頭角を現す。信長死後に分裂した勢力の再統合に成功、続いて各地の有力勢力を服属させ、日本統一を果たした。統一後、国内においては全国規模の太閤検地や刀狩などを行い、戦国期の混乱を収束させて近世への地盤を固めるが、国外的には中国への侵攻に失敗、朝鮮半島で足止めされたまま戦局は泥沼化し、事態の収拾を図れないまま死去した。

 1537~1569 前半生
 1570~1572 信長包囲網
 1573~1574 改名と城主
 1575~1578 第二次信長包囲網
 1578~1580 近畿と中国の戦い
 1581~1582 本能寺の変
 1583~1585 織田家の変
 1586~1591 日本統一
 1592~1599 唐入りと死
 ゲーム中の役割
 
 1537~1569 前半生
 
前半生については不明な点が多い。さらに後世の創作や当人のプロパガンダも入り混じっているため、余計に混乱をきたしている。とりあえず、尾張の生まれだが、若いころに家を出て遠江に流れ着き、今川家に属する松下之綱に使えた後、尾張に戻って信長に仕官したことは間違いないようである。

永禄8年(1565年)ころの書状から、当時の秀吉が「木下藤吉郎秀吉」として美濃の国人の取り込みに従事していたことが確認される。永禄11年(1568年)からは信長の上洛に従い、六角軍の箕作山城を攻めている。永禄12年(1569年)には伊勢の北畠軍との戦いに従軍、8月26日(10月19日)には阿坂城攻撃の先陣を務め、負傷しながらも阿坂城を陥落させた。8月28日(10月21日)からは北畠軍の本城である大河内城攻めに従軍、西門の攻撃を担当した。
 1570~1572 信長包囲網
 
元亀元(1570)年には信長の越前侵攻に従軍する。浅井長政が朝倉軍を支援して敵に回り、全軍の撤退が決まると、光秀らとともに殿を務め、自らも生還した。いわゆる「金ヶ崎の退き口」である。6月からは浅井軍本城の小谷城攻めに従い、領内を焼き討ちしている。6月28日(7月30日)には「姉川の戦い」に従軍、戦勝後は横山城の包囲に加わり、占領後は守備を任された。

11月ころに一向宗が蜂起すると、秀吉は丹羽長秀とともに村々を巡って一揆を鎮圧した。同時期、信長の本隊が浅井軍および朝倉軍と対峙して均衡状態に陥っていたため、長秀とともにはせ参じて信長を喜ばせた。なお、これは秀吉らの独断であったため、はじめ信長は敵が接近したものと警戒したと言う逸話がある。その後、講和が成立すると、秀吉は横山城に帰還したものと考えられる。

元亀2年5月6日(1571年5月29日)、秀吉は長政に攻め込まれた堀秀村らの救援に向かい、「箕浦の戦い」で浅井軍を撃破した。元亀3年7月21日(1572年8月29日)、信長自らが前線に赴き、虎御前山に布陣した。秀吉は別動隊として付近の村落を焼き討ちした。7月22日(8月30日)、秀吉は山本山城から出撃した阿閉貞征の部隊を撃退し、信長から特別に称賛された。


7月23日(8月31日)、秀吉は長秀とともに越前国境付近の大吉寺を攻略した。9月16日(10月22日)、信長が前線から退くと、秀吉は虎御前山の守りを任された。11月3日(12月7日)、秀吉は虎御前山に押し寄せた浅井軍および朝倉軍を撃退し、信長の期待に応えた。
  
 1573~1574 改名と城主
 
元亀4年7月16日(1573年8月13日)、秀吉は信長に従い、二度目の足利義昭との戦いに従軍した。義昭の籠る真木島城攻めでは西方からの攻撃を担当し、戦後は投降した義昭を護送した。その後、秀吉は義昭に与した岩成友通の守る淀城に侵攻、家臣団を内応させた。友通は打って出て細川藤孝の部隊に破れ、戦死したが、これは家臣団が仕向けたものと言われる。

なお、『信長公記』によると、この時点から、それまで「木下藤吉郎」と記されていたのが「羽柴秀吉」となっているため、元亀3年11月3日(1572年12月7日)から元亀4年7月16日(1573年8月13日)の間に名を改めたものと考えらえている。

8月12日(9月8日)、信長は朝倉軍本陣への強襲を画策した。秀吉は先陣を任された諸将の1人となったが、好機を逃すまいと躍起になる信長は、秀吉らよりも先に朝倉軍本陣へと侵攻した。秀吉らは後になって信長に追いついが、叱責されて謝罪した。信長が危惧した通り、すでに朝倉軍は後退をはじめていたが、これによって捕捉することができ、「刀根坂の戦い」で壊滅的な打撃を与えることができた。

朝倉家滅亡後の8月27日(9月23日)、秀吉は小谷城に攻め込み、浅井久政の籠る京極丸を落とした。自害した久政の首は信長のもとに送られた。翌日、信長自らが長政を自害させて浅井家は滅亡した。秀吉は信長から浅井家の旧領を与えられた。秀吉は今浜を本拠地と定め、名を長浜と改めて城を築いた。

天正2(1574)年初頭、旧朝倉領の越前で一向宗が蜂起した。秀吉は信長の命により、越前国境付近の守りを固めたが、秀村の名代が逃走したため、追っ手を出して討ち取った。これにより、秀村は所領を没収され、追放刑に処された。
  
 1575~1578 第二次信長包囲網
 
天正3年5月18日(1575年6月26日)、秀吉は「長篠の戦い」に従軍した。長秀および滝川一益とともに有海原に布陣し、左翼の守りを固めた。8月12日(9月16日)、越前に向かう途中の信長を出迎え、そのまま行軍に従った。8月15日(9月19日)、先陣の武将の1人として大良に侵攻、明智光秀とともに一向宗を撃破すると、そのまま府中にまで進撃、8月23日に(9月27日)には加賀に侵入した。信長が越前奪回の論功行賞を終えて撤収すると、加賀の一向宗は打って出たが、逆に秀吉は好機と見て撃退した。

天正4(1576)年初頭より秀吉は安土城の築城に従事、長秀や一益とともに「蛇石」と呼ばれる巨石輸送の指揮を執った。5月7日(6月3日)からは、本願寺の攻撃を受けた天王寺の救援に従軍、ここでは第二陣を率いている。また、このころに「瀟湘八景」の大軸を入手、信長より保有を許された。

天正5年2月2日(1577年2月19日)より信長の紀伊侵攻に従軍、内陸方面に侵攻する武将の1人となった。3月21日(4月9日)に講和が成立すると、信長は撤退したが、秀吉らはしばらくの間残留した。8月8日(9月19日)、柴田勝家に従って加賀に再侵攻するが、勝家と対立し、独断で撤退したため、信長の怒りを買った。

10月13日(11月22日)、信長の命により播磨に侵攻、10月28日(12月7日)には進撃が好調であることを信長に報告し、感状を受け取った。しかし、秀吉は現状に満足せず、そのまま但馬へと侵攻、竹田城を落とし、弟の秀長を城代とした。

11月27日(1578年1月5日)より上月城を攻撃、毛利に属する宇喜多直家の援軍を排除した後、12月5日(1月12日)に上月城を攻略した。その際、投降した兵士は全員処刑し、山中鹿之助ら尼子家の残党に上月城を任せた。その後、秀吉は福岡城を陥落させ、但馬を制圧した後に帰還、信長より恩賞として乙御前の釜を与えられた。
  
 1578~1580 近畿と中国の戦い
 
天正6年1月1日(2月7日)、秀吉は信長の開催した茶会に出席、続いて1月4日(2月10日)には信忠の茶会にも招かれた。2月23日(3月31日)、秀吉は再び中国地方に侵攻したが、播磨の別所長治が反旗を翻し、4月には上月城が毛利軍に包囲された。

秀吉は荒木村重とともに上月城の救援に向かったが、毛利軍の兵は多く、地勢的にも攻め難かった。そのため、6月16日(7月20日)に信長の元に戻り、今後の指示を仰いだ。6月26日(7月30日)、秀吉は信長の指示に従って後退、上月城を放棄し、守りを固めた。その間に織田軍は神吉城と志方城を攻め落とし、これらの城の管理は秀吉に任された。

11月3日(12月1日)、村重が反旗を翻すと、秀吉は光秀らとともに説得にあたったが、聞き入れられなかった。その後、村重に与する切支丹の高山右近を取り込むため、宣教師を遣わすことになった際には、その護衛を務めた。11月14日(12月12日)、荒木軍の伊丹城攻めに従軍、その後は三田城を包囲した。

天正7年5月25日(1579年6月19日)、秀吉は播磨の海藏寺の砦を占拠した。連絡を絶たれた漆河城の敵は自発的に退去した。9月4日(9月24日)、秀吉は直家の臣従を認め、安土城の信長のもとを訪れて許可を求めたが、信長に独断を咎められ、播磨に戻った。9月11日(10月1日)、秀吉は三木で敵を破り、信長に報告した。信長からは称賛の書状を送られた。10月30日(11月18日)、信長は直家の帰順を許したため、秀吉は取り次ぎを行った。

天正8年1月6日(1580年1月22日)より秀吉は三木城の攻略に着手、1月17日(2月2日)、城主の別所長治らが切腹し、三木城を占領した。4月20日(6月2日)より播磨の反信長派勢力の掃討に着手、播磨を再征服すると、黒田官兵衛の助言によって姫路城を本拠地と定め、築城をはじめた。一方、但馬の攻略を命じた秀長も期待に応えたため、6月6日(7月17日)より因幡および伯耆の国境付近の勢力の取り込みを着手、彼らを味方に引き入れ、信長から称賛された。
  
 1581~1582 本能寺の変
 
天正9年6月25日(1581年7月25日)、秀吉は中国地方へと侵攻、因幡の鳥取城を包囲し、毛利軍の援軍にも対処できるように広大な陣地を構築した。4ヶ月に渡る包囲の末、10月25日(11月21日)に鳥取城は降伏、城代の吉川経家らが自害した。

10月26日(11月22日)、吉川元春率いる毛利軍が伯耆に侵攻、織田軍に属する羽衣石城を包囲した。秀吉はただちに救援に向かい、元春と対峙したが、戦闘にはならず、11月8日(12月3日)に両軍とも撤退した。12月22日(1582年1月16日)、これらの功績により、秀吉は信長から感状を賜り、22種類の茶器を贈与された。

天正10年3月17日、(1582年4月9日)、秀吉は備前の残敵を掃討した。続いて備中に侵攻、高松城を水攻めにした。これに対して毛利軍も援軍を出したため、両軍は対峙することとなった。知らせを受けた信長は、自ら出陣するべく諸将に命を降した。しかし、その中の1人であった光秀が6月1日(6月20日)本能寺に滞在中の信長を襲撃、殺害した。

6月2日(6月21日)、秀吉は高松城主である清水宗治の自害を条件として毛利軍と講和、そのまま撤収した。6月12日(7月1日)に摂津に帰還、翌日13日(7月2日)には「山崎の戦い」で光秀を撃破した。秀吉は勝竜寺城に逃れた光秀を包囲したが、わざと包囲網に空きを作り、伏兵を配置して逃走した光秀を討ち取ろうとした。しかし、光秀は秀吉の意図を見抜き、別ルートで娘婿の秀満がこもる坂本城に逃走した。

秀吉は光秀を追撃したが、14日(7月3日)、小栗栖の農民が討ち取った光秀の首級を持ってきた。秀吉は喜び、光秀の首級を杖で打ち叩いたと言う。その後、坂本城は陥落し、秀満は自害、光秀の腹心の斎藤利三も捕らえて処刑し、光秀の一党は壊滅した。

秀吉は所領の長浜城で休養を取った後、勝家らとともに尾張の清州城で今後について話し合った。この「清須会議」の結果、信長の後継者は孫の秀信であることが定まり、その旧領は家臣団と信長の遺児らで分割された。

10月10日(11月5日)より秀吉の主導による信長の葬儀が行われた。その後、信孝は勝家と結んで秀吉を除こうとしたが、秀吉は先手を打って信孝の籠る岐阜城を包囲し、信孝を降伏させた。
  
 1583~1585 織田家の変
 
天正11年上旬(1583年1月)、伊勢の一益が挙兵した。秀吉が伊勢に向かうと、越前の勝家、美濃の信孝が一益に呼応し、秀吉は包囲された。秀吉は信孝に狙いを定めたが、柴田軍の佐久間盛政が羽柴軍の守りを切り崩した。報告を受けた秀吉は盛政を強襲して撃破、続いて勝家の本隊も撤退に追い込んだ。「賤ヶ岳の戦いに勝利した秀吉は進撃を続け、勝家の本城である北ノ庄城を攻略、勝家は自害し、逃走していた盛政も捕らえて処刑した。

勝家の旧領のうち、越前は長秀、加賀は柴田軍から寝返った前田利家の所領となり、柴田軍の残党となった越中の佐々成政に対する備えとした。その後、秀吉は信雄とともに美濃の信孝を包囲した。信孝は信雄の招きを受けて城を出た後、自害を強いられた。残った一益も降伏し、反秀吉派の勢力はほぼ壊滅した。その一方、このころから秀吉は大坂城の築城をはじめている。

天正12(1584)年、信雄は家康と語らい、秀吉の打倒を目論んだ。秀吉は、信雄の部下から知らせを聞いて尾張に侵攻した。すでに美濃では、池田恒興が秀吉に味方して織田軍と交戦していたため、秀吉は恒興と合流して織田軍と対峙した。

4月7日(5月16日)、秀吉は恒興らを別動隊として三河に派遣した。しかし、家康らは動きを読み、4月9日(5月18日)に長久手で恒興らを迎撃、恒興らは戦死し、別動隊は敗走した。5月1日(6月10日)、秀吉は自ら兵を指揮して美濃の加賀野井城を攻略、続いて竹ヶ鼻城を水攻めで降した。

このころ、尾張の蟹江城が秀吉に内通したため、秀吉は一益に蟹江城の接収を命じたが、機先を制した家康によって一益は撃退された。秀吉は知らせを受けて一益を救援するつもりであったが、その前に蟹江城が陥落したため、諦めて京都に戻り、家康もまた遠江まで引き返した。7月、秀吉は信雄と接触して講和し、続いて家康には臣従を命じた。そのために秀吉は自分の母親と妹を家康に引き渡した。

天正13年3月(1585年4月)、秀吉は和泉に侵攻していた雑賀衆を撃退、そのまま紀伊に侵攻し、雑賀衆をはじめとする諸勢力を制圧した。その後、秀長には四国の長宗我部元親との戦闘を命じ、自らは帰還した。7月、秀吉は関白に昇進し、姓を豊臣と定めた。同時期に元親も降伏したため、接収した阿波を蜂須賀正勝、讃岐を仙石秀久、伊予は福島正則らに分け与えた。最後に残った越中の佐々成政も降伏し、徳川家を含めた織田家の旧領は秀吉によって統一された。
  
 1586~1591 日本統一

天正14(1586)年、豊後の大友宗麟は、薩摩の島津義久に押されて苦境に陥っていたため、秀吉の助力を仰いだ。秀吉は秀久を救援に向かわせたが壊滅した。

天正15年3月1日(1587年4月8日)より秀吉自らが出陣、長門より西方を経て薩摩に侵攻する一方、秀長にも一隊を任せ、東方より南下させた。秀吉らが薩摩に迫ると、義久は薩摩と大隅を除く勢力圏を秀吉に引き渡して降伏した。秀吉は、肥後を先に下した成政、筑後は小早川隆景の領土とした。7月下旬(8月中旬)、秀吉は大坂に戻った。このころ、聚楽第が完成したため、新たな拠点とした。冬に肥後で反乱が起こった。

天正16(1588)年初頭、秀吉は反乱を引き起こした成政の不手際を責めて自害させた。成政の旧領は加藤清正に与えられた。4月14日(5月9日)、後陽成天皇が聚楽第に行幸したため、秀吉は諸侯を従えて饗応した。4月18日(5月13日)、後陽成天皇は還幸した。秋の末に秀吉は北野で大茶会を催した。

このころ、秀吉は北条氏直に臣従を迫っていた。天正17(1589)年秋には北条氏規が派遣され、氏直の上洛を約束したが、果たさなかったため、天正18年2月1日(1590年3月6日)より逐次諸将に関東への侵攻を命じ、3月1日(4月5日)には自らも出陣した。秀吉は小田原城を包囲し、7月10日(8月9日)に氏直は降伏した。氏直は許されたが、7月12日(8月11日)に父の氏政と叔父の氏照らが責任者として切腹した。北条家の旧領は家康に与えられ、家康の旧領は中村一氏、山内一豊らの諸将に分割された。

続いて秀吉は東北部の再編に着手し、大崎義隆、葛西晴信らの領土を改易して木村吉清に与え、伊達政宗から没収した會津郡を蒲生氏郷に任せた。しかし、秋の末になると吉清の領土で反乱が起こり、豊臣秀次が総大将となってこれを鎮圧、吉清は改易され、その領土は氏郷に与えられた。

天正19年4月(1591年5月)、秀吉と淀君の間に息子が産まれたが、同年秋には死去した。12月、秀吉は関白を秀次に譲り、自らは太閤となった。
 
 1592~1599 唐入りと死

天正20年3月1日(1592年4月12日)、秀吉は諸将に朝鮮への侵攻を命じた。肥前の名護屋が司令部と定められ、16万近い将兵が招集された。秀吉自身は4月25日(6月5日)に名護屋に到着、朝鮮には渡らず、ここから指揮を執った。5月2日(6月11日)、日本軍は朝鮮の首都漢城を攻略、秀吉は知らせを2週間後の5月16日(6月25日)に受け取った。

6月16日(7月24日)、朝鮮からの救援要請が明に届いた。明は救援を出したが、日本軍は明軍を撃破した。7月21日(8月28日)、秀吉の母の大政所が危篤という知らせを受け、翌日には大坂に戻ろうとしたが、途上で死去の知らせを聞いた。8月2日(9月7日)、秀吉は大坂に到着し、葬儀を執り行った後、11月1日(12月4日)より名護屋に戻った。

文禄2年5月23日(1593年6月22日)、明からの使節団が来日し、講和を求めた。秀吉は受諾し、6月28日(7月26日)に石田三成、大谷義継、小西行長、増田長盛の4人に全権を委ねて使者を明に送った。8月4日(8月30日)、秀頼誕生の報を受けて再び大坂に戻った。その後、秀吉は一部の将兵を占領地の守りに残して大半の将兵を朝鮮から撤収させた。

文禄4年7月3日(1595年8月8日)、秀吉は謀反を企んだ疑いで秀次を高野山に幽閉した。7月13日(8月18日)には前野長康ら秀次の一党を処罰、7月15日(8月20日)に秀次が自害すると、それに伴い、3人の息子と39人の妻妾を処刑した。

慶長元年年9月1日(1596年10月22日)、明の使者が来日した。先に提示した日本側の条件はまったく顧みられず、秀吉を日本国王に封じるという返答に秀吉は激怒した。行長の不手際を責めて処刑しようとしたが、周囲に宥められて思いとどまり、再度の出兵を決意した。

慶長2年2月21日(1597年4月7日)、秀吉は14万の兵力を整え、朝鮮半島に派遣した。しかし、今度は漢城に至る前に進撃は食い止められ、南方に退いて守りを固めた。慶長3年5月(1598年6月)、秀吉は病に伏し、後継者の秀頼のために五大老や五奉行などの制度を整える一方、諸将にも秀頼に対する臣従を誓わせた。8月18日(1599年10月7日)、秀吉は死去したが、その死はしばらく伏せられ、秀吉の名の元に「唐入り」の撤兵が行われた。
 
 ゲーム中の役割
 
能力的には優秀であるが、「戦闘」だけ1段劣る。「小牧長久手の戦い」で家康に翻弄されていることが響いているのだろうか。数々の城攻めの功績は「謀略」に譲るとしても、「山崎の戦い」や「賤ヶ岳の戦い」の勝利を考えるとやはり物足りない。

「外交」に関しては非常に難しい。「本能寺の変」直後の毛利家との迅速な講和や、以後の内紛時の諸侯への対応、「小牧長久手の戦い」における織田信雄の取り込みから「小田原城の戦い」を利用した東北諸侯への恫喝まで、「唐入り」を除けば満点とも言える頭脳の冴えを見せているが、「唐入り」に関しては情勢に対する認識不足のもたらす戦前交渉から行き当たりばったりで得るところの無かった講和交渉まで何ら見るところがない。相殺して「A」というのはやはり妥当なところと見るべきなのかもしれない。

能力の総合値としては「戦闘」と「謀略」を入れ替えると主君の信長と同等である。ただし、上昇補正に「謀略」がある分、信長よりも総合的には上となる。天下人の面目躍如といったところか。

シナリオ2、3では織田家所属。「謀略」の高さが買われて工作員として用いられる。シナリオ4では実質的な主役と言っても良く、「羽柴秀吉改名」や「大坂城築城」イベントが用意されている。

シナリオ6では信長の元から独立して主君をやっている。もっとも、自身も加藤清正に独立されているのだが。とは言え人材的には西軍系の武将が集まり、石高の高い大坂城を所有しているため、非常に有利な状態にある。ただし、近畿は侵攻ルートが入り組んでいるため、まずは外交関係を構築して敵を絞ることが望ましいと思われる。